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それでも必ず、春は来る。

こころに傷を負って、しとしと哀しみの雨が降る。
ときに笑顔になれど、ふとした拍子に重たい雲がこころを覆っては土砂降りの雨が降り、こころを哀しみで満たしていく。

傷を撫でる。こんな傷を負った自分を責める。
自分が嫌になる。空気が澱んで冷たく感じる。
こころが冷えきって、消えてしまいたくなる。

それでもある日、そんな傷に温かさを感じる。
この傷も含めて自分だと、わかるようになる。
目を背けたかった傷を、慈しむ気持ちになる。
傷ついたことで得た何かを、こころで感じる。
頑張った自分を、すこしだけ誇らしいと思う。
顔を上げる。桜の蕾が、その刻を待っている。



こころに傷を負って、それを受け容れて前を向くまでのプロセスは、四季の流れに似ている。

梅雨から春へ。

それぞれの傷により、四季の流れる速度は異なるだろう。
それでもきっと、いつか春は来る。


春は来るというのは、傷が癒えるという意味ではない。
残念だけれど、癒えない傷がある。
それでも春は来るというのは、その傷を受け容れて、それも含めて自分だと、理解できたときのこと。
その傷を連れて前を向けたとき、過去に迎えた春よりすこしだけ彩り豊かな春が訪れる。


その傷とともに歩んで、また傷つくことがあって、四季を巡る。
そうして何回も何回も四季を巡って、春を迎える喜びを知る。


傷の深さは人それぞれで、まだまだ突然の土砂降りにこころを痛めている人もいる。
冬の寒さにこころが固まってしまって、動けないでいる人もいる。

光なんて、射していない。
桜なんて、咲いていない。

でも。
それでも必ず、春は来る。


おまえにこの辛さがわかるのかと、わかってたまるかと、思われてしまうかもしれない。
そう。ぼくにはわからない。
ぼくの傷は、大したことないかもしれない。

人の苦しみや哀しみを完全に理解することは、きっととてもむずかしい。
だからときに、同情や慰めの言葉はこんなにも無力なものかと、虚しく響いてしまうことがある。

それであれば、自分を信じよう。
春は来ると信じる。
だからぼくは、春は来ると信じているということを、伝える。

苦しみに、哀しみに、癒えずとも向き合って、人に勇気を与える人がいる。
そんな人の言葉にも、触れてみよう。
行動していい。
求めても、縋ってもいい。
それは春を、渇望している証だから。
人生を変える出会いを、求めている証だから。


だからそれでも、必ず春は来る。

傷を受け容れて、顔を上げることができたら。
そのときはきっと、桜の蕾があなたに微笑みかけている。

そして、ふわりと。
あなたに向かって、咲き誇るから。





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