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ごめんねぼくは。 #書き手のための変奏曲

おかあさん、若くていいよね。
そんなことを、昔から言われてきました。

ぼくは母が20歳のとき、帝王切開で生まれました。生まれたときの体重は、4,500g。当時その産院で生まれた赤ちゃんの最重量記録だったそうです。子どものころ、母のおへそから下に走る一本の線を見ては不思議に思っていました。ぼくにはないのに、女のひとにはあるのかな。漠然と、そんなふうに思っていました。
ある日、だれかに何気なく言われたのをおぼえています。妹は普通に生まれたのにね、と。なんとなく、思ったのだと思います。普通じゃない生まれ方があるのかと。でもそのときはどんな生まれ方が普通じゃないのか見当がつかなかったし、そもそも普通の生まれ方さえ知らなかったから、ぼくは首を傾げるしかありませんでした。けれど、妹が普通であるということは、普通じゃないのはぼく以外にいないのだと、それは理解していた気がしています。母のおへその下に走る線とそのことにどうやら関わりがあるようだということも、あわせて。



母は、ぼくが3歳のころ離婚しました。だからぼくには、実の父親との思い出がありません。生きているのかそうでないのか、それすらも知りません。母と同年代だった気がするので、そう考えれば父親も還暦をすこし過ぎたあたりでしょうか。そう考えると、まだ元気でもまったく不思議ではないのですが。
古いアルバムの中、端っこが掠れてすすけたような色の写真。おそらくは白の緩いタンクトップを着た、痩せた男の膝の上。ちょこんと座る、ぼくがいました。それを見たところであらゆる感情は動くことなく、ぼくにとって親は母であって親はひとりであって、そしてそれで充分だったけれど、いやなこともたくさんありました。父の日が憂鬱でした。だから、やっぱりこころのどこかでは漠然と思っていました。「おとうさんがほしい」、と。おかあさん若くていいよねとか、そんなことどうでもいいからおとうさんがほしかった。
そして、その願いはある日、突然叶いました。



「おとうさん」。はじめて、その言葉をつかいました。大柄でがっしりした、強そうなおとうさん、やっとぼくにも、おとうさんができました。毎週日曜日は早起きをして、近くの公園でキャッチボールをしてもらうのが楽しみでした。
しかしながらそのおとうさんは、あるときから急に母に手をあげるようになりました。ふすま一枚をへだてて夜ごと怒声が響く、狭いアパート。母が殴られている。眠れずそのようすを窺っていたぼくはふすまを勢いよく開け、戦隊もののヒーローよろしくおとうさんに飛びかかりましたが、もちろん惨敗。硬くて大きなたんすめがけて、ぼくは思い切り投げ飛ばされました。悔しくて、痛くて、たくさん泣きました。
しばらくして弟が生まれましたが、そのときにはもう、そのおとうさんはいなくなっていました。次のおとうさんは普通のひとだったらいいな、そんなことを思ったでしょうか。まさか。もうたくさんでした。その辺のおじさんは夜になると暴力をふるうのだと、本気で信じていました。そしてぼくもいつかは、そんなおじさんたちのひとりになるのだろうと。



そんなふうに、母は女手一つで三人の子どもを育てました。感謝の気持ちはもちろんありました。ありましたが、あるときまでは、親なんだからそれくらい当たりまえのことだ、と思っている節もすくなからずありました。
でもある日、母の体調が思わしくなくなりました。仕事が好きで、子どもたちが成人してもフルタイムで働いていた母が、働けなくなりました。ぼくは、そのときになってようやく思い知ったのです。
母の身体はこんなにも、細くて小さかった。

社会人になって、生活していくことの厳しさを知りました。毎日毎日クタクタになるまで働いて、それでも届かない余裕のある暮らし。たくさん自問自答しました。母の身体のその細さ、小ささに、ぼくはなぜもっと早く、気づけなかったのだろうかと。もっと、努力できたんじゃないだろうか。もっとしっかり目標をもって、もっとしっかり稼いで、母に楽な思いをさせることができたんじゃないだろうか。



ずっと、いい子にしてきたつもりだった。けれどやっぱり、何かが足りなかったみたいだ。
ごめんねぼくは、もっとあなたをしあわせにしたかった。それが、ぼくの役割であって願いだった。十分しあわせだよと、きっとあなたは言うだろう。きっと、そうして笑ってくれるだろう。でも、そうじゃないんだ。もっと、もっと、できたことがあったんだ。できたことが、たくさんあったはずなんだ。
ごめんねぼくは、たいした息子になれなかったかもしれない。たいしたことが、できなかったかもしれない。
でも、ひとつだけ言わせてね。

ずっと、あなたのことを、大切に思っています。



いったい母は、どうやって三人の子どもを育ててきたのだろう。結婚して、今こんな状況で、ふたりだけでも生活していくのに余裕などありません。母の偉大さなどと言っては陳腐に感じられますが、こればかりは、まったく想像がつかないのです。
ぼくがしあわせになることが自分のしあわせでもあると、子どものころから母はいつも、教えてくれました。だから母は今、喜んでくれていると思います。ふたりであたたかい家庭をつくって、慎ましくても笑顔の絶えない場所にしたい。なんだかさいごに優等生みたいなことを言ってしまいましたが、なかなか本気でそう思っています。

いつまでも、元気で。



◇◇◇


こちらの企画に参加しました。

元のnoteは、こちら。

呑みながら一気に書き上げたポエム調のnote。写真を挟み込んで、淡々と書き綴るエッセイのようなイメージで書きました。
がらりと構成を変えたりとか、大掛かりなことはしていないのですが、勢いで書いたものを一歩引いて読み直してみるというのはまたいい経験になりました。マリナさん、ありがとうございます。

そしてこのnote、リライトしたいと思ったきっかけがありました。

verdeさんのこのnoteを読んで、母がどのような気持ちで三人の子どもを育てあげたのかということに改めて気持ちが及びました。すぐに今回のリライト元のnoteが浮かびました。自分の気持ちをなぞるように、改めて書いてみたいと思いました。
そして、ともこさんの「分岐点話」でのインタビュー。

「読む」と「聴く」が、きっかけを与えてくれました。verdeさん、ともこさん、ありがとうございます。

なんだか、母に会いたくなりました。一時間ちょっとで行ける距離にいるんですけどね。
母は、とっても元気です。

ということで、今日は過去noteのリライトをさせていただきました。
改めて、マリナさん、verdeさん、ともこさん、ありがとうございました。








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