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そうしてぼくらは、余白を旅する。

「行間を読む」と言うけれど、こうして毎日文章を書くようになってからというもの、その表現ではもの足りないときがあると思うことが多くなった。


余白を旅する。


そんな言葉の方がしっくりくるような体験をすることが、たしかにあるからだ。



やっと書き上げた文章は、ほんとうに愛しいものだ。
自分の思いを一語一語にこめて、伝えたい。
どの言葉も拾ってほしい。
味わってほしい。
プロだとか、趣味だとか、まだまだ書きはじめだとか。
そんなことは関係なくて、自分の溢れる思いや考えを、余すことなく伝えたい。

一方で、そんな気持ちと対照的に、自分が書いたものを長すぎて冗長かもしれないと思うことがある。
伝えたいことが100あるけれど、そのためにこことここを削っても、100のままなんじゃないか。

そんなふうに思う。

読んでくれる人からすれば、たぶん文章はすこしでも短いほうがいいのではないかと思う。
だからときに、かわいいかわいい自分の文章を、思い切って削る。

身内のかわいさと、読みやすさ。
どちらを取るか、いつも悩む。

そうして、決断して、自分の文章に手を入れるとき。
その時間は、書いているときの苦しさをはるかに上回るものだったりもする。

だから。



小説でもエッセイでも。
それが本でもnoteでも。
行と行の間には、もしかしたら泣きたい気持ちで削られた一文があったのかもしれない。
行と行の、その隙間に。
言葉にできなかった思いが詰め込まれているのかもしれない。


文章は、余白をふくめて文章だ。
だからそうして、余白のボリュームにあわせて思いを巡らせる。

この人は、何を思ってここに余白を置いたのだろうとか。
どんな考えを、思いを、この余白に込めたのだろうとか。

それを考えると、同じ文章を読んでもその味わいはまったく違うものになることがある。

そうして、その余白に自分の体験を重ねていく。
物語と自分がシンクロする。
辛かったことも、楽しかったことも。
青春のほろ苦さや、大人としての葛藤も。
子どものころの、おぼろげな思い出も。

込められたメッセージを探って、自分の体験を重ねて。


そうしてぼくらは、余白を旅する。


文章を読むということは、もしかしたら余白を読むということなのかもしれない。

真っ白なその余白は、込められたメッセージに自分の体験を重ねてできた、自分だけの色を落とし込むためにあるのかもしれない。


読み進めていくうち、その余白が何色に染まっていったか。
そんなことを気に留めながら、読んでみるのもいいかもしれない。
きっとそういうものこそが、かけがえのない出会いとして記憶にのこっていくものなのだと思うから。







<おわりに>
たくさん余白をつくって文字数を減らそうと意気込んでいたのに、気づけば1,000字を超えていました。
ここから「おわりに」を書くからさらに増えるんですけどね。笑

文字を減らすってほんとうに大変。
おととい「旅する日本語」のタグに挑戦して400字のnoteを書いたのですが、これはほんとうにきつかった。
削って削って、あと3文字...。
もう削れない。
このひらがなは絶対漢字にしたくない。
この読点はずしたくない。
この一文いらなくね?
...んなわけねーだろッ!
そんな葛藤とたたかいながら、何とか397字(だったかな?)に落ち着きました。

余白に魅力がある文章もあれば、思いをまっすぐにズシンと響かせながら伝えてくれる文章もあります。
どっちがいいってことじゃない。
みんな懸命にカタチにしているなら、どれも素晴らしいのです。
好みはたしかにあるかもしれない。
粗いとか洗練されているとか、ちょっと誤字があるとか、あるかもしれない。
でもだれかが懸命に提供してくれたものにたいしては、そんなこと気にする前に敬意です。
これは絶対にね。
みんなが気持ちよく受けとり捧げることができる、美しい場所でありたいですね。
このnoteの街は。

「おわりに」のおわりで1番アツくなってしまい、結局今日も長くなってしまいました。

昨日も長かったけど、

今日の方がきっと、

内容が、

あるよう。


も、も、...も。


うん。
今日はこれ以上うだうだするのやめておきます。

ハァ、1,700文字...。


いつもおつきあいいただきありがとうございます。
週末、引きつづきお天気心配です。
どうか穏やかに過ごせますように。

それでは、また。






いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。