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元気ではない私に価値はないのか
現在元気か元気じゃないかと言われると元気ではないよな、と答えざるを得ない私です。
自分にグッドステータスモードとバッドステータスモードがあってその2つの差を埋めることが自分が抱える問題の解決に一番近い手段なのかなとか考えたりもしますが、いかんせん2つのステータスの間にはマリアナ海溝ぐらい深い溝がありましてだいぶ難航しています。
大学生の頃に病気がわかって、それ以降に自分の中の「調子いい時」と「調子悪い時の差が激しいんだなということに気がつきましたが、無自覚なだけでその前からいい時の私と悪い時の私ってだいぶ違う面を人に見せていたのかもしれないと今になってぼんやり考えたりする次第です。
別に二重人格とかではないのですが、あまりにも価値観が違うのでどちらかの状態の自分が下した判断が、もう片方の状態の自分にとっては全然適してない判断になっていて自分で自分の首を絞めちゃってるみたいなことがまあまあある。
調子のいい時の自分は割と社交的でどこかに買い物に出かけたりするのが好きです。家族や友達と遊びに行くのが楽しくて仕方がないし、賑やかな場所にいるのを楽しいと思えて多少の人混みでも疲れない。
調子の悪い時は調子のいい時の自分が楽しめているものは全くと言っていいほど楽しめないです。静かな場所じゃないと落ち着かないしむしろ起きているのが辛いから眠って自分を守らないとダメ。もちろん外出なんかできないし誰かと喋るのも辛い。調子がいい時には何も気にならなくなった人のことを急に憎らしく思えたりもするのが怖い。
私は長年調子の悪い時の自分を問題視して槍玉に挙げてきたので調子のいい時の自分についての分析が浅くて読み応えがなくなってますね。
それだけ悪い時の私がいなくなったらいろんなことが丸くおさまるのに、どうして調子が悪くなっちゃうんだろうと考えてきた結果なのではないかと思われます。
しかし今こうしてこの文章を書きながら、必ずしも調子が悪い時の私だけが調子のいい自分の方に歩み寄ろうとするだけで、調子のいい時の自分は調子の悪い時の自分のことをちっとも省みていないんだなということに気がつきました。
調子が悪い時の自分にはなんの価値もなくて、調子のいい自分だけを優遇したら全てが解決するのにと思っていたのが原因だと思われるのですが、きっとそういうことではないんですよね。
調子が悪い時の自分って社交性が皆無だし活動性もかぎりなく0に近いから社会生活ができない状態であることはいわずもがなだけど、だからといって全てを蔑ろにしてしまうのは短絡的なのかもしれない。全てを受け入れられなくて信じることができない自分もまた自分の一部で、そのこと自体について考えて受け入れていかないと一生「調子いい時の自分」と「調子悪い時の自分」の差は埋まらないような気がしてきました。
価値がなくて不要なように思われる「調子悪い時の自分」だけど、時折現れて私の表層部分になることは確かで、体裁は良くないかもしれないけど自分の考えや姿勢の表した一つの形であることに違いはないから、まずはそういう自分も大事にしないことには何も始まらないのかもしれないと思いました。
逆に調子がいい時の自分にも問題はあるし、何より解ろうとする姿勢が足りていないことを考えるとこちらの自分も大事にされてこないまま今に至ってきたのだなということがわかります。
そう考えるとどんな姿の自分でもわかろうとして、どうしたらいいのかを考える時間が必要なのだなと思いました。
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