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ルールで感情を置き去りにしたニッポン、感情で行動をつくるメキシコ

Instagramでメキシコの写真をふと見かけたら、一気にタイムスリップしたようにメキシコでの思い出が蘇ってきました。学生時代、足掛け5年、合計1年ちょっと、メキシコにいました。メキシコシティにあるストリートチルドレンの施設に通って、インターンをしていたのですが、きっかけは高校時代。中南米のストリートチルドレンの問題がどうしても気になって高校1年生からスペイン語を高校の授業で勉強し始め、大学生になって縁あってメキシコへ行くようになり、それから毎年数か月、メキシコシティに滞在して現地のストリートチルドレンの施設で働いていました。

そこでの生活は怖いことも、楽しすぎることも、驚いたことも、たくさんありましたが、今日は

ルールで感情を置き去りにしたニッポン、感情で行動をつくるメキシコ

というタイトルで、書いてみます。これは、メキシコでの日々が私に教えてくれたことの中でも、最も大きな1つと言って過言でない学びでした。

ホームでひとりで電車を待つ、車いすの男性

どこの国へ行っても、一番多くの人が使う交通手段を使う、と決めています。総合商社マン時代はそれが出張先でさせてもらえなくて(安全面の問題で)、現地スタッフにお願いをしてドライブに連れて行ってもらいなかなか見れないローカルを見せてもらったりしていました。本当は電車やバスに乗りたかった・・。

メキシコは会社の関係で行ったときは銃弾にも強そうな車に乗せてもらいましたが、学生時代はいつも個人で行っていたので普通にメトロに毎日乗っていました。時々バスにも乗りましたが、どこがバス停か全然わからないので一度誰かについていって体で学ぶしかなく難しかったです。笑 メトロバスはわかりやすかったし当時まだ新しかったので綺麗でしたけど、ルート的に乗る機会がなくメトロの日々でした。

ちなみにメキシコの街に溶け込んで(メキシコは人種が多様なので溶け込めやすい)、すっかりメキシコのスペイン語を話す私はしょっちゅう現地の人と思われながら過ごしていました。Tシャツにスカーフを撒きパーカーを羽織り、ジーンズに運動靴。言葉にするだけでめちゃくちゃメキシコっぽい。そして靴の中にはお札、ジーンズの右のポケットに可愛いメキシコの市場で買った小銭入れ(メトロの切符入り)、左のポケットに現地用の小さな携帯。今の時代ならSIMフリーのiPhoneでOKですね。笑

で、です。いつも通りメトロに乗って、施設に向かっていました。窓の外を眺めながら乗っていて、もうすぐどこかの駅に着くというとき。ホームの上にひとりの車いすの男性がいました。私は「お?」と気になって見ていたところ、ちょうどピッタリ自分が覗いていたドアが男性の目の前に停まりました。「あ、どうしよう」と思ったのもつかの間、同じ車両にいた3~4人の人がバッとホームへ出て、車いすの方を車内に運んで、挨拶をして元の席に戻っていきました。車いすの方はそんなに驚きもせず、「gracias (ありがとう)」と言って微笑んだだけ。私はひとりで驚いていました。あの一瞬の出来事を、10年以上経った今でも鮮明に覚えています。

日本の駅で車いすの方を見かける時、よく駅員さんが折り畳みスロープのようなものを抱えて隣に立っていて、電車がついてドアが開くとそれをガシャっと設置し、車いすを押して車内に運んで、ストッパーを付けて礼儀正しく挨拶をして駅に戻っていく、という印象があります。メキシコには、それが不要みたいでした。

席を譲ってくれた、杖を突いたおじいちゃん

また別の日のこと。メキシコはラテンですから、すれ違う女の子と目が合えばウィンク、目が合わなくても遠くから口をプスプスッと鳴らして呼んできます。たいてい適度な会釈をすればOKです。むしろそうやってウィンクやプスプスッをしないことの方がおかしい、くらいのカルチャーです。という前置きをしつつ、ある日のメトロの中での出来事です。

ある程度混んでいました。席はなくて、また立っていました。日本のように完全無防備なまま乗っていれないので、チラチラ周りを見ながら携帯も見ずに電車に揺られていました。すると、またいつものプスプスッが聞こえる。

見渡すと、杖を持って席に座っているおじいちゃんがこっちを見て「Vente
Señorita! (= お嬢ちゃんこっちおいで)」と言っています。近づいて「Qué pasó?(=どうしたの?)」と言うと

メヒカーノおじいちゃん「ここ座ってよ(ゆっくり立ち上がる)」
ハポネス20歳のわたし「なんで!座ってていいよ!」
メヒカーノおじいちゃん「かわいいから座ってほしいんだよ」
ハポネス20歳のわたし「へ?!えーーー!?あ、ありがとう・・」
メヒカーノおじいちゃん「buen díííaaa(=いい日をね~と言って去る)」
という出来事が起こったのです。

シルバーシートと道徳の授業が(おそらく)生んだ私の自動思考

私はたまげたのです。

・え、なんでおじいちゃんが20歳の若者に席を譲るの?!
・え、そんな理由?!

日本では「お年寄りに席を譲りなさい」、これはもはや埋め込まれているような自動思考です。(妊婦<お年寄りだと感じたことがかなりあった妊娠していた頃の都会エピソードについてはまた今度。笑)

「シルバーシートはお年寄りのための席」これもまたもはや埋め込まれている感覚です。最近はよく見ると、ご老人だけでなく、障がい者やけが人や妊婦さんにも、と書いてあることはあります。

私が驚いたのは、「ご老人に席を譲ることはあっても、譲られることはない」と思い込んでいた自分の思考についてです。どうしてこんなことを思い込んで生きてきたんだろう、と考えました。

最終ルールとしてのシルバーシート(ここはお年寄りのため)と道徳の授業(お年寄りは敬う、席を譲る)の影響なのでは、とわたしは感じました。

「すでに決まっているルールによって、思考するチャンスを奪われ、感じる必要を失われてしまっている」という事実に出会ったのです。

感情が思考を生み、思考が行動を生む

感情知能EQの勉強をし、それを専門にしコーチングやファシリテーター(研修講師など)の仕事をグローバルと日本とでしていますが、シンプルに表現すると、「感情が思考を生み、思考が行動を生む」ことは科学的に証明されています。95%におよぶ潜在意識(無意識)が思考に影響を与え、顕在化する5%の意識を引き起こし、言動というアウトプットを生んでいます。

すなわち、95%の潜在意識・無意識の部分に、日本で生まれ育った私と、ドアの向こうの車いすの方にすぐさま気づきすかさず行動をした人たち・そして明らかに健康で元気な20歳の私に席を譲ってくれたおじいちゃんには、とてつもない違いがあったのです。

そうじゃん、席なんて譲りたい人に譲ればいいじゃん!本当に困っている人がそこに居れば当たり前にサポートすればいいじゃん!

そんな原理原則、言葉では言えていたかもしれないし、そりゃそう、と思っている気がするのに、おそらく潜在意識の中では違った。

「シルバーシート」や「暗黙のルール」や「"いいからやれ"的カルチャー」が、本来の目的を思考するチャンスを奪い、感じる必要をなくし、「だってルールだから」を理由にオプションというオプションを排除しているのではないでしょうか?

日本の感情知能EQのスコアは、世界最下位です。ヒトとして生まれ、脳を持っていれば必ずひとりひとりの中にある「感情・思考・行動の仕組みや関係」を知らないので、外側にある「ルール」を巨大な盾にしています。

だって、もしシルバーシートにお年寄りや妊婦さんが座っていて、みんな元気いっぱいで、そこへ明らかに調子の悪そうな小学生が電車に乗ってきたら。メキシコの人たちなら、何人か同時に立って駆け寄る勢いでその子に席を譲るのです。

もっと心で感じる練習を

世界や社会は複雑ですが、もっと人はシンプルでいい。心に帰ってきましょう。それを目の前にして、ザワザワする感覚を、ヤキモキする感覚を、後ろ髪惹かれる感覚を、何かできそう!とワクワクする感覚を、心躍る感覚を、もっと味わいませんか?

脳はとても面白くて、複雑で賢くて、でも意外とシンプルなコツがあったりします。心に蓋をする、感情は(大事らしいけれども厄介だし痛みを伴うしすこし面倒なので)見ないことにする、そういう風に生きてきた脳の使い方を変えるには、少なくとも3か月ほど、「心はいま何を感じている?」とすごく意識を払ってみて頂きたいんです。すると脳がそのやり方・パターンに慣れて、コツがつかめてきます。

私たち日本人は、もっと自分のために生きていい。「人のため」「ルールだから」と、自分の命と心をないがしろにするのはもうやめましょう。それはつまるところ、実は自分の命に甘えた保身なのかもしれません。自分の外側のせいにしないこと。したいときもありますけどね!でも、練習です。自分のことをわかっている人、自分の流れを、波を、波の起こし方を分かっている人は、相手にとっても、全体にとっても、ありがたいもので、やさしいもので、エネルギーや癒しを与えるものです。

もっと感じましょう。
あなたのしたいことはなんですか?
した方がいいと思うことはなんですか?

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