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「言葉」を伝えるということ

誰かに何かを「伝える」というのはとても難しいことだよなと思います。多くの場合では、言いたいことというのはほとんど伝わらないもので、愛にまつわる状況などは例外ではあるのでしょうが、概ねではあまり気負いすぎないのも大事だと思いますね。

簡単にまとめすぎると、かえって味気なくなって面白みがなくなってしまうこともあれば、難しいけどもパッションがある! みたいなタイプの素敵な文章もあるんですよね……。文章の奥義は難しいなと思います。

最近は語学って何だろうな……と色々と考えたりしていました。チョムスキーとか。

何らかの試験的な語学もあれば、もっと実用的な語学もありますし、一口に「語学」と言っても、本当に多様で意義深いように思います。

例えば、ロシア語なら завершать で「~を終える」みたいな意味なんですけど、これは不完了体で、一方には完了体の завершить があるじゃないですか。これって何なんですかね? というのも「完了」とは何か? みたいなことをよく思うんですけど、何と言うか言語学とても難しいです……。

あるいはイェスペルセンの『文法の原理』によれば、多くの学者は「副詞的属格」 (adverbial genitive) に対立するものとして「連体的属格」 (adnominal genitive) という名称を使用しているものとされているのですが、この際の副詞的な属格と連体的なそれの差異のような現象が、どの点のシステム的な意味論なり統語論なりから供給されているのか……みたいな、マルクス的に言う「下部構造」のようなものを洞察することも時に大切な気もするのです。例えば、何が「体言」であると言えるのか? あるいは「動詞」はそれとはどのように違うのか? その上で「連体的」であるということの意義は哲学的にどのように生産され、私たちの社会の下部構造に――ブルデュー的にでも――どのような文化資本の連鎖を引き起こしており、さらにそれらの複雑系はどのように「計算」可能であるか? みたいな問題意識ですね。簡単に言うと。もっと言えば、「完了体」における「体」と「連体的属格」における時の「体」の概念の組成が持つ差異と共通性質の抽出の問題なのですが、これもムズイ……。

ここのところは上記のような課題に悩んでいました。言語学とかその実践的な系統としての語学の系列は本当に深淵だなといつも思います(笑)

語学は大変ですが、とても楽しいのですごくいい勉強になりますね。私も色々なことを考えながら、もっともっと語学の勉強を重ねていけたらいいなと思います。きっとそのようにして「言葉」に真摯に向き合う姿勢こそが、大切な誰かに何かを「伝える」という奇跡を起こすのかもしれません。とてもとてもロマンチックですね。

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