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儚くなければ愛されないのでしょうか

土曜日、狙ったように満開になった桜は、月曜日の雨でことごとく散りゆく。春めく気もそぞろな人々の足は途絶え、まるでそんなもの最初からなかったのですというような顔をして、日常はひたひたと帰ってくる。

地面に敷き詰められた花びらの絨毯は踏みつけられて薄汚れ、泥水に浸かり奇妙な斑点模様を作る。かつて人々の目を楽しませ癒していたのと同じものだとは、到底思えない。あっけなく消え去る、夢か幻。

こういうところが桜の好きになれないところで、もっと本当のところを言うと、そういう、夢とか幻みたいな部分にだけ寄ってたかってあとは見向きもしない世の中のことが、私は好きではないのかもしれない。……なんて言ったって、仕方がないのはわかっている。


汚いものに目を向けたくないのは人間の性とも言える。本能的に、あるいは後天的に。いずれにしても、日本人なんか特に、だと思う。それが美点でもあると認める一方で、なんだか胸のあたりがむかむかしてくるような、ぎゃーっと声を上げながらそっぽ向いて走り出したくなるような衝動も覚える。ある意味共感性羞恥のそれに似ている。

この世には美しいものしかありません、それ以外は私の辞書にすら存在しないんです、という人が、たまにいる。正直苦手だ。
別に桜くらいは綺麗なときだけ見ればいいと思うけれど、そんな話がしたいんじゃなくて、もっと抽象的に漠然と、そういう考え方に対して私はなんかやだな、と思う。だって美しいものが美しくあれるのは、そこに汚いものがあるからでしょう?

絶対的な美しさって、ないと思う。美しさに関してはどれも相対的なもので、それは美しさにおいて劣ったものの存在によって成り立つ。同じように、汚いものだって美しいものがあるからこそ汚くあれる。どちらかがなければもう一方も存在できない。気がする。たぶん。
これ以上話を広げると私の浅はかさがばれそうなので、なんとなくのイメージを伝えるだけに留めておく。


丁寧に綺麗なものを愛しましょう、美しいことだけを考えましょう、そんな生き方こそが正義なのです。それって、時には本当の美しさへの冒涜にもなるんじゃないかと不安になる。

だけど、私だってそうなのだ。休みに撮った桜の写真を見返すと、どれもこれも“美しい”アングルでしか撮られていない。桜並木を歩いているとどうしても上ばかり見上げてしまい、このときばかりはすっかり桜の魔法にやられてしまった。

けれどその魔力を知っているからこそ、花が去った後のうらぶれた感じを見て、安心する。たとえば非の打ち所のない完璧な人の弱い一面を見てしまったとき、ああこの人も普通の人間なんだ、とふっと力が抜けるあの瞬間みたいに、そうかこれはきちんと現実なのだ、とすとんと降りてくるのだ。
現実を、 現実として認識できることは、ただ盲目に夢だと信じ込むことよりもずっと健全だと思う。

だから私は、散った花びらが地面に溶けて消え失せて、桜の木が桜であったことを忘れてしまうほど青々と繁るようになっても、桜を桜として覚えておきたいのだ。きちんと。束の間の美しさが一年間泥臭く根を張り生き抜いた証であることを、忘れてはいけない。
そうした上で私はまた、再び夢を見せてくれる次の春を、密かに待ち焦がれることにしよう。


今だけは、天国に通じる梯子のような。

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