見出し画像

【感想】『ひめ・ごと』を教えてくれてありがとうと伝えたいnote

田村芽実ソロミュージカル『ひめ・ごと』、やっと見終えました。

とりあえず、「今後、田村芽実の出演作には欠かさず足を運ぶ」と心に決めました。多分この人は、自分が望んでた日本の芸術を変えてくれる一人なんだな、と改めて思ったからです。それくらい素晴らしかった。

正直、この作品を前にあれこれと考察するのも野暮な気がします。ですが、自分の考えをこのタイミングでまとめておかないと後々後悔すると思ったので、感想として書き記したいと思います。

「ひめ・ごと」を秘めたままにしないでくれた、スタッフのみなさんとめいめいに感謝をこめて。

『ひめ・ごと』から何を感じ、何に感銘を受けたのか

開演してからしばらく、私はフワフワと掴みきれない、浮遊感のようなものを感じていました。その原因はすぐにわかります。本来なら交わることのない、2つの世界が作品の中で入り混じっていたからです。

具体的にはこの2つ。

・田村芽実という人間×”ゆうき ひめ”という人間

・西洋ミュージカルの世界観×等身大の日本の女の子

普通ならどちらかに絞られるであろう設定が重なり合い、つかみどころが難しい、そんな世界がスタートから広がっていました。誤解を恐れず言うと、「どこか違和感を感じた」ということです。

それを踏まえて、今作で私がもっとも感銘を受けたのは

この違和感を、高い表現力とエネルギーで統合させて、最終的には一つの新たな世界として完璧にまとめあげた

という点です。もう少し詳しく解説していきます。

リアルとバーチャルの重なり合い

一つ目は「リアルでの田村芽実という人間×劇中での”ゆうき ひめ”という人間」の重なりです。

今作は誰かへメッセージを届けようとする主人公の悪戦苦闘から始まります。序盤では誰宛のメッセージなのか、どんな状況でどんな内容なのかはあまり明かされません。わかっているのは、主人公の名前が「ひめ」ということと、困ってドタバタしてることくらい笑

そこでひめから、「授業って自由に妄想をする時間だと思っていた」という旨の言葉が飛んできます。

私はここで「ん?」とひっかかりました。なぜなら以前、めいめいがインスタライブで話していた「授業中はいつも妄想ばかりしてて、先生の話を全く聞いていなかった」という内容そのままだったからです。

他にも「言いたいこと思ったことを素直に言うと、周りに変な目で見られたり馬鹿にされる」という部分も、大きな夢を掲げながら人前に立ち続けてきためいめいを重ねずにはいられませんでした。

これは不思議な感覚です。ミュージカルに限らず、役者さんの職業はバーチャルなその役を演じきることであり、その人の本来の性格や素顔が作中で感じられるというのは、あまり良しとされることではありません。

ですがここでは、表情や話し方は別人の”ひめ”という人間の中に、たしかに田村芽実という人間が見えるのです。このフワフワした掴みきれない感じを、私は「浮遊感」と呼んでいるわけです。

でも、あくまでこれは「田村芽実のソロミュージカル」。自分を投影するような形もありなのかな、と思いながら見ていました。

一つの人格を作り上げる田村芽実の表現力

そんな甘っちょろい考えで見ていた私でしたが、あるセリフを境にその浮遊感は一瞬にして消え去ります。

初めてメッセージの宛先が明かされた、「なぎくん」というセリフ

ここはもう受け取る人それぞれでしょうが、私はこの4文字が聞こえたタイミングで、作中の時空がぐにゃっと折れ曲がり、深いところへ沈んでいくように感じました。

それまでフワフワしていた部分がしっかり混ざり合い、一つの人格として、一つの世界観としてどっしりとその居場所を見つけた感覚とでも言いましょうか。

この田村芽実という役者は、たった一言で自分の人格を重ねながらも全くの別人である”ひめ”を作り上げたわけです。”めいめい”とも”ひめ”ともどっちともとれるな、ではなく、はっきり一人の新しい人間を作り上げた表現力に驚きました。

こうなってくると前半の浮遊感も必要なものに感じられてきます。夢の国に迷い込んで不思議な感覚に身を委ねていたところを、ぐいっと作品の世界に吸い込まれたわけです。こんな体験はなかなかできません。

ビジュアルとストーリーのズレ

2つ目の浮遊感は「西洋ミュージカルの世界観×等身大の日本の女の子」という点でした。いわば、めいめいが多大な影響を受けた「ルーツ」と、めいめい自身が持つ「アイデンティティ」の重なり合いです。

まず西洋ミュージカルの世界観ですが、これは視界に入ってくるビジュアル面を指します。部屋のつくりや内装は完全に欧米の作品でよく見られるものですよね。

特に存在感を放つのが白いフカフカのベッド。私も幼少期に『サウンド・オブ・ミュージック』は何度も見ましたが、先生が子供たちに「私のお気に入り(My Favorite Things)」を歌い聞かせるシーンが思い出されました。(可愛いベッドが準備できて本当によかった。)

他にも窓のつくりだったり、家具だったり、いたるところに西洋を連想させるポイントが散りばめられています。

それくらい、見た目の世界観としては「西洋」が確立されているわけです。ミュージカルに限らず、NHKのティーン向け海外ドラマなんかでもよく見る光景です。

ですが話が進むうちに、この女の子は我々の住む世界の、普通の女の子であることがわかっていきます。

転校生が”東京”から引っ越してきたり、妄想で登場するスターは”山口百恵”だったり、自分の家のことをはっきり”洋館”と呼んだりする。遠い他の国ではなく、ここ日本のお話であることがはっきり示されます。

「恋する日本の女子高生」を主人公にしたお話というのも、よく見るどころか巷に溢れかえってる光景です。ですが、ビジュアルでは全面に西洋が打ち出されているわけです。

一つ目同様めんどくさい人間ですが、ここに少しズレを感じました。西洋の見た目なら西洋の人々のお話が普通だし、日本の女子高生の話なら日本の女子高生らしい生活をしてるのが普通です。

ただ、このズレに関しては、見ているうちにいつの間にかいなくなっていました。なぜなら、別に何も問題はなかったからです。

我々は日々を生きる中で積み重ねてきたものから、「普通」を生み出します。それは狭い世界では「常識」にもなりますが、広い世界で見ると「変わった風習」であり「偏見」にもなりえます。

今回私は自分の中の「普通」と照らし合わせて、「それは変じゃないか」と思ったわけです。でも、作品を見ていっても、何もおかしいところはない。むしろ今まで見たことのない、自分一人では出会えなかったような世界が広がっているのです

だから作品を見終わった頃には、2つ目の浮遊感は消え去っていました。

ルーツとアイデンティティを掛け合わせるエネルギー

音楽の世界で、最近よく「ブラックミュージックとJPOPの融合」という言葉を耳にします。そのアーティストが多大な影響を受けたブラックミュージックというルーツに、日本人としての個性・アイデンティティを掛け合わせ、新たな音楽を生み出すわけです。星野源や髭男なんかが代表例ですね。

これは音楽・芸術の世界に限った話ではありませんが、「新しいもの=イノベーション」はすでにあるものにプラスアルファが足されて生み出されます。

完全に新しいものなんて存在しません。逆にルーツ=土台となる部分がはっきりしなければ、ぐらぐらとして安定感のないものになります。でもルーツの色が濃すぎると、そこに新しさはなくなってしまうわけです。

今回のめいめいの作品には、その両輪の掛け合わせがはっきり見られました。自身のルーツであるミュージカルの傑作たちに、自分のアイデンティティである日本の女の子としての考え方を重ねて、新たな世界観を作り出しているのです。

この融合はとてもエネルギーがいることです。中途半端な掛け合わせだとどっちつかずになってしまうし、やりすぎるとお互いの良さを打ち消しあってしまいます。だから繊細な感覚と、大きな熱量が必要な仕事なのです。

それに自ら挑戦し、素晴らしい作品としてしっかり世間に発表してくれたそのエネルギーに、私は感動しました。

日本語詞のミュージカルサウンドへのこだわり

このルーツ×アイデンティティのこだわりは楽曲面にも見られました。

ちょっと話はそれますが、西洋ミュージカルを日本語版にリメイクする際の最大のネックは「楽曲の歌詞の和訳」だと私は思っています。セリフは長さの変化が多少あってもよいのでニュアンスは伝わりやすいですが、楽曲にはメロディという制約があり、そこにうまく乗るように日本語を当てなければなりません。

この制約の下で、さらにストーリーに影響が出ないように必要な情報を盛り込むのは至難の業です。例えば、めいめいがMUSIC FAIRで歌っていた『Popular』という曲のサビ終わりの歌詞をみてみます。

英語:Very very popular, Like me!

日本語:ベリーベリーポピュラー、わかる?

英語の方の最後の一言"Like me!"を訳すと「私みたいにね!」となるわけです。自分は人気者だと思っているグリンダが、"私のように"人気者になるべきなのよと説いている歌なのです、この一文だけでグリンダのキャラクターが見えてきますよね。

一方日本語。まず大前提としてここに「わかる?」の3文字を当てはめるのまじで天才だと思います。「人気が大事ってわかってる?私はちゃんとわかってるのよ!」と捉えれば、言葉は大幅に変わっても、グリンダのセリフとして全く違和感はありません。

ですがやはりLike me!はLike me!にしか表せないことがあるのです。ただ優しくイメージチェンジを手伝ってあげればいいのに、最後にLike me!をつけてしまうところに、グリンダのちょっと鼻につくところがはっきり現れるのです。

加えて、Like me!は「らいくみー」ではなく「らいk みー」なので2音です。2音でここまでのニュアンスが出せるのが英語の力です。一方、日本語は一音一音に母音が存在するので、細かい刻みに向いていない代わりに長い音では伸びやかに綺麗に聞こえます。

ここで強調したいのは言語には得意不得意、長所短所があるわけで、英語用に作られたメロディに日本語をのせるというのはそもそも限界があるということです。

ここで話は今作の劇中歌に戻ります。今作の楽曲たちはめいめいの敬愛する遠藤響子先生が書き下ろしていますが、これが本当に素晴らしかった。

”日本語のミュージカル楽曲”として、こだわって書かれているからです。

どこか懐かしいミュージカルチックなメロディに、日本語がすごくよく響いて聞こえるのです。ピアノ一本と歌だけなのに、とても広く響いて華やかに聞こえます。クラウドファンディングのリターンをサントラにして大正解でした。

今作ではそういった部分でも、ルーツとアイデンティティを重ねていく取り組みがなされているわけです。本当にすごい。

「親の心子知らず」を両面から描く

ここまで、『ひめ・ごと』の二つの世界の混ざり合いについて長々と語ってきましたが、最後にもう一つ、仕掛けがありました。

劇中で”ひめ”は

「箱の中に閉じ込められてこのまま一生出られないかも」

というような、「母親はきっと理解してくれない」ということを示唆する言葉をいくつか発しています。

でも、最後のシーンの母のセリフ

「あの時間にあんなところにいるなんて、あの子にとってよほど大事なことがあったんだろう」

「(不動産を売る話は)断った。ひめがだめと言っているような気がした」

とあるわけです。

ひめの視点でしか描かれていなかった母は、娘の思いをちゃんと理解してくれる母親だったんですね。でも最後の状況になり、お互いの本心は永久に届かないままになってしまう。ここにたどり着いた時、胸が苦しくなりました。

ここまでさまざまな世界が交錯した作品でも、「自分をわかってくれないかも」と悩む女の子と「ちゃんとわかってくれる」母親の2つの世界だけは、重ならないままで終わってしまうのです。

これを描いたのが脚本の西森さんか、めいめいの企画なのか、そしてどんな思いがこめられたのか私にはわかりませんが、ある意味、大人の階段を登りつつあるめいめいだからこそ描ける、二つの世界なのかもしれません。

田村芽実の人間の魅力

さて、ここまで説明してきたように、私はこの作品でいかんなく発揮された、めいめいとスタッフのみなさんの「異なる世界を一つにまとめあげる表現力とエネルギー」に感銘を受けました。

でもここまでだと「めいめいすげえ!!」って思ってるだけなんですよね。ここにもう一つのめいめいの魅力が加わってはじめて、私は「この人なら本当に日本のミュージカル界を変えてくれるんじゃないか」と思うに至りました。

音楽を担当された遠藤響子先生のブログにこんなエピソードがあったのでご紹介します。

ーーもう、筆舌に尽くしがたく「ええっ!? これでは、あんなにめいめい頑張ったのに、、、彼女の頑張りが削がれてしまう!」っと納品〆切日も迫るなか、スタッフさんに食い下がりまくってギリギリスタジオをとってもらえた日はもう本当に、「ああ、良かった、ああ、良かった。」と涙しました。

MIX作業がプロジェクト全体の工程に入っていなかったものの、響子先生が交渉してなんとか入れられたというこのお話、私は今回のソロミュージカルの全てがつまっていると思います。

今作を通じて、それは劇中の1時間だけでなく、この作品の概要が発表されてから上演に至るまでの数ヶ月で、私が一番感銘を受けたのは、めいめいの「自分の言葉で伝え、人を動かしていく力」です。

世界ではSDGsやESG投資という言葉が普及し、「何を目指すのか、何を実現したいのか」という”ビジョン”を重要視する考え方が急速に拡大しています。

でも、いくらビジョンがかっこよくても、大きな社会貢献になっても、それを人々に伝え、共感してもらい、巻き込んでいく力が必要になってくるわけです。

めいめいはインスタライブで何度も「自分の言葉で伝えたい」といって色々なことを説明していました。本当に楽しそうに『ひめ・ごと』を作る喜び、幸せを語ってくれたりもしました。

クラウドファンディングをすることが決まった時も、自分の言葉でできる限り伝えようとしてくれました。

表現力やエネルギーに満ち溢れている人はたくさんいるかもしれない。でも、自分の言葉で伝えることにこだわり、人の心と体を動かしていける人はそう多くいません。

その力がいかんなく発揮された結果が、響子先生がなんとかめいめいの頑張りに報いてあげたいと動いたことにつながり、クラウドファンディングの大成功にもつながったと思います。

私も動かされた一人です。”田村芽実”という存在を知ってからまだ半年も経っていないのに、こんなnoteを書くまで動かされてしまいました笑

めちゃめちゃ雑な例ですが、言ってしまえばONE PIECEのルフィです。私は、この人がこの後どんな人生を歩んで、どんなものを見せてくれるのか見てみたい。そう思って、冒頭の「今後、田村芽実の出演作には欠かさず足を運ぶ」という決意に至るわけです。

おわりに

ずいぶんな長文になってしまいました。ここまで読んでいただいた方には本当に感謝です。ありがとうございます。

しかし悔しい。自分の頭の中にあることの半分ほどしか文章に表せてない気がします。特に最後のめいめいの「人を動かす力」の部分は全然説明できてないですし、クラウドファンディングの件とももう少し絡めて書きたいので、また別記事にしたいと思います笑

自分が素晴らしいと思うものを文章で伝えるということの難しさを身に染みて感じました。精進します。

兎にも角にも、結局は「この素晴らしい作品をみんなに見て欲しい!」ということです。ここまで読んでくださった方で、まだ見てないという方はほぼいない気はしますが笑

アーカイブの視聴は3月4日(水)23:59まで、チケットの購入は同日の21:00までです。後で見ようと思ってた方、もうすぐ終了なので注意しましょう。(自戒をこめて)

もしこの記事に意見や感想がございましたら、コメント欄やTwitterにぜひお願いします。厳しい反論等はお手柔らかにお願いします笑

改めて最後までお読みいただきありがとうございました。

そしてめいめいとスタッフのみなさま、素敵な作品を本当にありがとう!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?