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私が「みん日」から「でき日」に乗り換えたわけ2

 前回のnoteに予想外の反響をいただきました。

 あれ?もしかして、意外と多くの方が同じような環境で教えてらっしゃる??と勇気もいただきました。

 ですが、「みん日を辞めた理由はわかったが、乗り換え先がなぜ「でき日」なのかが書かれていない」というコメントもいただきましたので、今日は続きを書いてみようと思います。

 今日書くこともまた学生の目標とシラバスの関係そっちのけの身もふたもない話です。

 もし、私が1人で教えられる立場なら、学習者を見定めたうえで、「まるごと」、「つなぐ日本語」、「NEJ」などいろんな教科書を試してみたい。

 でも、経験も事情も異なるさまざまな先生方に滞りなく授業をしてもらうには自分の希望ばかり言ってはいられず…。

 私たち国内の予備日本語教育機関の使命は学生の目標をサポートすること。
目標とは進学、そしてその後の日本での就職( もちろん帰国希望者もいます)です。その手段の1つとしてJLPTやEJU、進学先の入試に備えた対策をしつつ、生活に必要な会話力もつけてもらうことが大切です。

 そのためには、授業前後の時間を準備ばかりにとられず、学生とコミュニケーションをとる時間を作ってもらいたい。教科書ではなく学生のことを考えてもらう時間をもっと作ってほしい。もちろんプライベートも大切に、無理なく働ける環境を作りたい。

それが私の願いです。

そこで、私が教科書を選んだときのポイントは前回もお話しした通りです。

学生が来日前に使っていない本
文法概念や論理的な思考が苦手な学生でもついてこられる本
どんな先生でもそれなりに教えられる本
どんな先生でも学生を混乱させない本


それに加え、以下の3つを考えました。

周辺の日本語学校でも使われているもの
みん日と価格が同等のもの
教え方のアドバイス、研修、セミナー等が頻繁に行われているもの

 その辺りを書いていきたいと思います。

なぜ周辺の学校でも使われているものなのか

 これも老舗の「いい学校」で働く方には理解していただけないかもしれません。

 私の学校は多くの日本語教育機関と同様に、授業のほとんどを非常勤講師に頼っています。ですが、クラス数が多くないので、なかなか希望のコマ数を担当していただくことができません。

 また、多くの経験者はこの業界に「ブラックな学校」が存在していることを認識しているので、経験が長ければ長いほど「得体の知れない新設校」を避ける傾向にあります。実態がわからないからリスクが高いのです。

 何の実績もない私の学校も非常勤講師のほとんどがベテランではありません。そして、熱意のある新任の中には「いろんな学校を見てみたい」と言って、はじめから複数の学校を兼務する方もいらっしゃいます。

 こういう複数校兼務は私にも経験がありますが、学校によって授業ルーティンが違ったり、授業報告のやり方が違うので、それに対応するのも大変です。
 

 それに加えて、同じレベルの複数の教科書に対応しなければならないとなると、負担は増加してしまいます。

 先生方の時間を圧迫しないために、教科書を変えたいと思ったのに、変えたことによって、教材研究の時間が増えてしまっては本末転倒、元も子もありません。

 得体の知れない新設校でコマ数を抑えて教える兼任の非常勤講師の方の負担を減らすには、どうしたらいいか?どうしても他校でも使われているものの中から良いものを選んだ方がいいという結論に至ります。

 そして、非常勤講師で兼務している方やいろいろなツテを使ってリサーチしたところ、出てきたのが「大地」と「できる日本語」でした。

 世の中にはたくさん新しい教科書が出てきて、選択肢もたくさんあるのに、たった2冊?!と思われるかもしれません。

 ですが、周辺校は本当にこの2冊または「みんなの日本語」という状況でした。

 余談ですが、そのリサーチの中で気がついたのは、私が「いい学校」だと感じているところや、信頼できる主任のいる学校のほとんどが既に新しい教科書に乗り換えているか、乗り換えようとしているところでした。


経営者の説得

 理想の教育と経営のバランスは永遠の課題です。
多くの日本語教育機関の教師( 特に主任)が、日々経営者とバトルを繰り返しているのではないでしょうか。

 私も例にもれず、教材費や非常勤講師の待遇の件で、たびたび経営者と衝突し、その度に「やめてやる!!」と心で叫びつつ、目の前の学生を見て思い止まる日々を送ってきました。

 たいていの日本語学校経営者は「日本語学校を経営している」だけで、日本語教育には疎いですが、自分は専門家だと思っています(爆弾発言)。

 なので、経営者を説得する時に教育理論やメソッド、自分たちの理想の話をしても、「そんなことはわかっている」と言われるだけで、話が進まないことが多いです。

 ですが、それが経費削減の話になるとイチコロだったりするのです(またしても爆弾発言)。

 私が教科書を変えたいと考え、リサーチを始めた時に、まずしたことは周辺の学校が使っている教材とその価格でした。

 私の学校では教材費は授業料といっしょに徴収し、使用テキストは学校から配布する方式をとっています。この方法は経営者が決めたことなので、私のコントロールできることではありません。

 これまで初級「みんなの日本語本冊」、「翻訳•文法解説書の各国語版」、各国版が出版されていない母語の学生には英語版+各国語彙訳を持たせていました。
正直言うと、多国籍になりマイナー言語話者が増えれば増えるほど、この発注と管理がとても大変なので、「学生のために一律徴収をやめる」と提案する気力が私にはありませんでした。

このセットを配ると1人分は4950円。

スリーエーネットワークの「大地」は同じく「本冊」と「翻訳•文法解説書」が出ており、2冊の値段は「みん日」と同額でした。

「できる日本語」の語彙訳は無料ダウンロードができること、本冊だけなら、3750円。
本だけ見ると、高くなりますが、セットとして考えると、安くなります。

どちらを選んでも、教材費が増えることはない

もし、選んだ新教材が高くなるとなれば、説得は大変…というか、うちのケチンボではほぼ無理です(またまたしても爆弾発言)。

 でも、「できる日本語」なら、「経費削減しませんか?」と言えば、たいていOKが出るはず。これは経営者に提案する時の好材料になりました。

「大地」か「できる日本語」か

ここで、初めてシラバスのことを考えました。

 「大地」は練習に工夫があり、みん日よりずっと楽に「たのしい授業」ができると思います。ですが、文型を導入するために、教師が例文を提示しなければならない、学生に合わせた場面を考えなければならないのはそんなに変わらないと思いました。

 そもそも変えるからには文型シラバスの教材を続けるつもりはありませんでした。

 理由は前回書いたとおり、学習者の「文法概念」の理解に限界を感じることに加え、OPIの勉強を通して、「話す」ことに対する理解が変わったことも大きいです。そして、自分自身の中国語学習を振り返ると、言語には場面が必要だという考えはますます強くなりました。

 もちろん、文法知識が全く必要ないとは思っていません。文法の汎用性は違う場面への応用にも役立ちます。

 私の中国語学習は現地生活の中で常にタスクが課せられている状況で、それをやり遂げた後に振り返って語彙や文法を知識として整理することで深まりました。言語知識を自分ごとにするには、まず使ってみて、失敗したり成功したりする経験が必要だと思います。

 学生たちの日本語を聞いていても、残念ながら私たちが教室で教えたものよりも、生活の中で聞き覚えたものの方が深く理解され、自分の言葉として発せられているように感じます。

 それなら、教室の中と外をもっと近いものにして、教室の中での学びを外の世界で試し、試したことを教室で確認し、整理するという環境にできればと思います。

 そう考えながら、「できる日本語」を見てみると、よくできた教科書だなあとワクワクしてきました。

「でき日」は「語彙導入」をしない

 私はみんなの日本語を教えながら、常々「みん日」的語彙導入に疑問を持っていました。

 「みん日1」の第11課くらいまでは、語彙を覚えさえすれば、その並べ方自体が文法なので、絵カードをフラッシュカードとして使い、パターン・プラクティスを繰り返すのも無駄ではないと思いますが、「みん日2」に入り、抽象的な概念が増え、その語彙だけを覚えても仕方がないレベルまでくると、絵カードを見せながら、語彙をリピートする導入の方法に違和感を感じざるを得ませんでした。

 絵カード自体がわかりにくいというのもありますが、それは元々みん日の前身である新日本語の基礎が「語彙・文法解説書」を予習した上で、授業を受けることを前提としていたので、ある意味文句を言ってもしかたがないことと思います。

 ですが、コロケーションや適切な場面と例文の提示なしで語彙をリピートすることに何の意味があるのかと思えてならなかったのです。

 基本的な語彙は直訳だけでもさほど問題にならなかったとしても、レベルが上がるにつれ、直訳では意味範囲や使用法にズレが出てきます。ことばは状況や文脈なしでは成り立たない・・・それなのに、絵カードで語彙をリピートする。いったい何の練習をしているんでしょう?そこで発音以外に得るものは何でしょう?

 それを解決するために、多くの熱意と知識のある日本語教師は語彙導入の時に、こういったものも独自に準備し、余すことなく教えていると思われます。ただ、大切だからと、新出語彙を1つ1つ丁寧に扱おうとすると、1コマでは終わらない課もあったりしませんか?

 それは正しいことなのでしょうか?
語彙に時間をかけることも疑問ですが、そもそも日本語学校の決められた時間数とスケジュールではそんな悠長なことはやっていられません。
 結局、語彙のリピートと意味の確認だけで終わってしまい、その教室活動が終わっても何も覚えていないということも少なくない気がします。

 「できる日本語」は新出語彙を先に与えることはせず、練習しながら出てきた時に紹介するという方針を取っています。

 これは私の長年のモヤモヤをパーッと晴らしてくれました。

 自分自身の中国語学習でも、単語帳などで一生懸命覚えたものより、必要な場面で「あ!こういう意味なのか!」と気づいた言葉の方がよく覚えていたりします。やっぱり語彙には場面・状況や文脈が必要なのだと思います。

 新出語彙をまとめて先に与えることはしないと言っても、課末にきちんとリストになっているので、授業後にまとめて復習することもできますし、予習したい学生にとっても使いやすい構成だと思います。

 「みん日」の語彙導入は教師の熱意と知識次第で、授業内容に差ができてしまいますが、「でき日」はそのような差が出にくいと思う理由の1つです。

「でき日」は「気づき」や「発見」を大切にしている

 「できる日本語」の使い方に関するアドバイス帳を読んだり、著者代表の嶋田和子先生のお話を聞くと、この教科書のキーワードは「気づき」、「発見」なのだなと感じます。新出語彙だけでなく、文法などでもそのような方針が随所に見られます。

 「でき日」の「チャレンジ」で学習者にイラストを見せながら、「この場面では何というか?」を既習の日本語で考えさせるという方法は、たぶんみんなの日本語で熱意と知識を持って教えている教師ならやったことがある導入方法だと思います。

 私も昔は「導入」=「小芝居」と思っていた時期があり、場面設定から、文型までを1人で言ったりしたこともありましたが、経験を積むにつれ、導入に学習者を巻き込み、「こういう時は何というか?」を考えさせ、「それもいいけど、もっといい言い方がある!」というような導入をするようになりました。

 みんなの日本語はそうして導入された例文の形の部分にフォーカスし、形が同じものについて、場面に関係なく口頭練習を行います。
 ですので、導入例文と、練習の例文、発展練習で場面が違うことは何もおかしいことではありません。
これはある意味、文法汎用性を生かした利点と言えなくもないのですが、文法概念を理解することができる学生でなければ、その汎用性はなかなか身につきません

 「できる日本語」は自分で文を考えた後に、模範会話を聞くことで「こういうときはこう言えばいいのか!」という気づきが導入になります。

 自然なやりとりの中で、その場面にふさわしい言い方を考えさえながら、聴解で学習項目にフォーカスさせるというのはもしかしたら、経験が浅い方には難しいかもしれないと思ったりもします。ですが、導入場面と例文を全て自分で考えるよりはずっとやりやすいのではないでしょうか。

 そして、「できる日本語」は導入と同じ場面の中で練習が続いていきます。同じ場面の中なので、意味や文法概念が曖昧だったとしても、状況や文脈でだんだんと意味が浸透していきます。しかも、その場面も日本語学校の学生にぴったりです。

 また、練習が別冊になっているので、学生に合わせたアレンジもしやすいと思います。学生の様子を見て、たとえ練習を飛ばしたとしても、学生から文句が出ません。(みん日の場合、あまりにも意味のないと思われる練習を飛ばすと、真面目な学生から「練習B-3をやってません」と言われることがあります 笑。)

 だから、目の前の学生に合わせて、練習を増やしたり減らしたりすることがみん日よりやりやすいと思います。
もちろんそのままやってもかまいません。

「できた!」という気持ちがモチベーションにつながる

 「できる日本語」は「言ってみよう」で十分な口頭練習の後に、「やってみよう」で実際にこの単元で覚えた表現が使えるようになったかどうかの確認をします。

 このパートも「みんなの日本語」を熱意を持って教えている方は練習Cの後に、独自に練習を入れたりする部分じゃないかと思います。その場合、練習Cまたは会話から発展させたり、目の前の学生に合わせた場面を考えたりしていると思いますが、できる日本語はすでにここに入っているので、自分で考える必要はありません。

 しかも、リスニングで深め、自分のことを話すという手順は「できた!」という実感が得やすいのではないかと思います。

そして教室の外へ

 最後の仕上げである「できる!」は学生を教室の外へと導きます。
語学学習は使ってなんぼ!話してなんぼ!使って、失敗したり成功したりする中での気づきが定着につながっていくと思います。

 こういったタスクもみんなの日本語で熱意を持って教えている方は自分なりに考えて、学生に与えていたと思いますが、できる日本語は教科書にそれがあるので、自分で考える必要もありません。
 繰り返しますが、こういう練習が教科書の中にあると、教師の熱意や力量の差による教授内容の差がなくなります

「みん日」の「課末読解」より使いやすい「話読聞書」

 初めて「話読聞書」のパートを見た時、「みんなの日本語」の課末問題にある短い読解文と同じかな?と思っていました。

 「みん日」の課末問題には習った文型と少しの新出語彙だけで読める小さな読み物がついています。読解文の内容はなかなかおもしろいものもあり、課によっては内容確認→精読→内容についてディスカッション、または作文まで発展させた授業ができるものもあります。

 ですが、「話読聞書」はそれよりも使いやすく、4技能全てを鍛える教材だと思います。
 内容が「ディスカッション」だけでなく、自分の主張を固まった文で話す練習になるような題材が多く、読解文そのものも読む練習の後に、「再話教材」として使えそうです。この題材を会話文にしたものもあるので、リスニングの練習もできます。

 この辺りは本当によくできているなあ、早く使ってみたいなあ!という気持ちになります。

文法が勉強したい学生にも対応可能

「できる日本語」は巻末に文型一覧表がついています。
「場面やトピックで会話中心の勉強ばかりでは、文法を勉強したい学生から文句が出るのでは?」と言われることがあります。

 そんな時はこのページを見せて、このような場面でこういうことが言えるようになると、自然にこんなにたくさんの文法を勉強できるのだと言うと、納得してくれるのでは?と思います。というか、定期的にこのページで習った文型を俯瞰させ、整理したり、この文型はこういう場面で使えるのだよと復習したりするといいのではと思っています。

 また、副教材の「文法ノート」、「ことばノート」は上述した教室の中での学びを外の世界で試し、試したことを教室で確認し、整理するのにぴったりだと思います。「できる!」のパートでアクティビティを行い、できたことを実感してもらった上で、改めてそこに出てきた文型を見直せば、場面も文型も深まりそうです。

 この副教材を適宜使えば、アクティブな練習が好きな学習者と、コツコツ問題集をこなすのが好きな学習者どちらのニーズにも応えられると思います。

使い方の勉強や研修のチャンスも多い

 最後に、「できる日本語」は教え方セミナーが度々開かれていることも魅力の1つです。
 

 私自身が教科書の使い方に自信が持てない中で、研修を行うのはリスクが高いです。間違った概念を広めてしまいそうな怖さもあります。


 その点、嶋田先生のビデオや、「できる日本語ひろば」などのリソースがあることが私にとっては大きいです。

まとめ

 以上が私が「できる日本語」ラバーになった理由です。「みんなの日本語」と比べた書き方をすると、やっぱりわかっていないなーと言われそうですが、今「みんなの日本語」をやめるかどうかで迷っている先生方が、勇気を出せるように書いてみました。

 日本語学校淘汰の時代に入っています。今後はその学校の独自性を打ち出すことが重要になっていくと思われます。今後教師を全員専任にしたり、他校との兼務を禁じられるくらいの学校になったら、周りの学校とは違う独自のコースデザインを作り、独自の教科書を使ったりしてみたいです。ですが、今の私にはこれが精一杯です。

ミラーさんは別れた恋人

 最後の最後にどーでもいい話です。

 先日、どなたかがミラーさんは元カレみたいなものだとつぶやいていたのを拝見して、言い得て妙だなと思いました。

 私にとって「みんなの日本語」は出来の悪い元カレ(DV男)みたいです。

泣かされ、傷つけられてもなかなか別れられず、やっとの思いで決めたさよなら。

周りにはもー!あんな奴!サイテー!
何でもかんでも人任せ。
外見ばっか気にして、中身がない‼︎
と悪口を言いまくっている。

でも、その彼の悪口が聞こえると、

待って。それは誤解よ!
彼にもやさしいところがあるの!

と言いたくなる。

ミラーさんがDV野郎であることは認めた上で、それでもかばいたくなる…

何なんでしょう?この気持ち。

人間って不思議ですね。


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