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「くらしのアナキズム③」

「国家から逃れた人びとはどこへ行ったのか?多くは国家の支配がおよびにくい険しい山奥へと逃れた。スコットの本のタイトルになっている「ゾミア」とは、そんな広大な非国家空間がひろがる中国南部から東南アジア大陸部の山岳地帯のことだ。(・・・)ぼくらが学校で学ぶ歴史は国家の中心から描かれた「国史」だ。だから、文明化した国家の中心が先進的な優れた場所で、その価値観に馴染まない周辺の僻地は遅れていて、そこに住む人々は「野蛮人」として描かれる。それは、東京にある大学や企業こそがすばらしくて、地方は不便で遅れているといったイメージとも重なる。」 『くらしのアナキズム』P36〜38  松村圭一郎
ミシマ社

野蛮人の方がいい。あるいは、ホモ・サピエンスは放っておくと野蛮人になるから無理くり「文明人」の優越という物語(『進撃の巨人』のエルデイア人みたい)を嚥下させる必要があったんだろう。(咀嚼して考えたら、「搾取してんじゃねーよ」と打ちこわし、革命が頻発する)

「これこそが、初等教育から高等教育にいたるまで、日本の」教育を規定しているエートスである。飲み込むこと、咀嚼せずに飲み込み、そのままで吐き出すこと、これこそが優秀な生徒の証である。学校の先生は、「2×2は4ですよ」「はい、わかりました」と飲み込ませる。先生の言ったことが「わかるか」「わからない」が問題になる。「どうしてそうなるの?」「納得いかない」という子供は「劣等生」のレッテルを貼られる。嚥下能力を欠いているからだ。そこでは、必要なのは嚥下能力であり、咀嚼能力ではない。」
『構造と診断 ゼロからの診断学』(岩田健太郎 医学書院 P27)

嚥下能力に長けたヤツは国家に馴染む。ああ、だから優等生は官僚になるのか・・。あるいは学校の先生とか。国家に都合の良い「量産型」を再生産しているようにも見えてくる・・(だいぶ意地悪い見方)

しかし、唯唯諾々と嚥下能力の涵養に勤しむ人間ばかりを重用すると国家自体の凋落を迎える。反証性がないっていうパターン。「貞観政要」のパターン。

では、オルタナ的な教育で「一人一人の個性を尊重」をやっていくと、嚥下より咀嚼を重視することになる。咀嚼する人間が増えたら、国家が要らないんじゃないか?と墓穴を掘ることになるのでは? 

国家、資本主義、ヒューマンスケール、労働時間の短縮 これらが重要だな。

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