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難しい対話の場にいざなわれて。

僕は元々、「対話」なるものの必要性には懐疑的だった。対話が好きな方と対話をしても、言葉遊びな感じがしてしまったり、対話することが自己満足化しているように感じたり、また対話が対話で終わり次に繋がりにくいはがゆさを持っていた。

ただ不思議なもので、ここ最近、そんな僕に、対話のお役目が降ってくることが増えている。同じような状況で、同じような役割を担わされることが多々あった。大体とても難しい状況で、当事者同士ではどうしていいか分からなくなったときに、僕にお役目が降ってくる。

このプロセスを経て、対話に懐疑的だった僕は、やはり対話は重要だ、と意見が変わった。なぜ対話が重要かといえば、人は自分の視点でしかものごとを見ることができないからである。人は、本質的に他の存在からものを見ることが出来ない。だから、対話という関わりを通じて、自分の世界への見方を更新していく必要があるのかもしれない。

ここ数ヶ月の様々な対話の場を経て、気付いたことがいくつかあった。それをまとめておきたい。

第一に、対話の本質は、「声を聴くこと」にあるのでは、ということである。対話は、話すことももちろんだが、他者の声を聴くこと、また自分の内側の声を聞くことに本質があるように思う。つまり、対話は、「話すことと聴くこと」で成立しているのではなく、「聴くことと聴いたことの共有」で成立していると表現したほうが正しいのではないかと思った。

第二に、対話の対象は、他者(他の人)に限定されないということ。自分自身との対話もあるし、場との対話、社会との対話、また植物や動物、大地といった自然との対話も含まれていい。僕の定義だと、芸術も、本来感じれなかった何かを感じさせてくれる存在(声なき声を聞かせてくれる)という意味で、芸術鑑賞も対話のひとつに含まれる。

第三に、対話の内容は、言葉に限定されないこと。対話は、文字面からは会話の延長に感じてしまうが、本来言葉に限定される必要はない。身体表現を通じて対話をしてもいいし、絵を通じて対話も出来る。また、植物に水やりをすることも、対話に含まれていいのであろう。

これらの気付きを経て、もし良い対話、なるものがあるとするならば(聞こえなかった声が聞こえる場、と定義)、僕自身に最も求められることは、心静かにその場に存在することかもしれない。対話の場では、いろいろな感情や反応が起こるが、それはそれで感じつつ、その場に静かにい続けることができること。起こることが起こるように場と存在できる、逆に言うと起こらないようにする流れに対して静けさを保てることが僕に求められているのかもしれない。

以上のことを考えた時に、僕自身は、作る人なのかと少し前まで思っていたが、違うのだろうと最近思い始めている。混沌とした場において、自分や他者、また自然の声を静かに聴いて、そこに自然と積み重なってきている意図を場として感じ、生まれようとしているものの声に耳を澄ませること。また、それにそのままの形を与えてあげること。

これが詩人としても、アーティストとしても日常的にやっていることであり、僕が本来やるべきことなのかもしれない。以前、アーティストの先輩に、「アーティストは、ゼロからイチを作る人と言われるけど、実はそうではなく、ゼロを見つけることの出来る人がアーティストなんだ。」という趣旨のことを言われたことを思い出した。

今後も変わり続けるだろうが、僕が果たしていくべき役割の一つが目の前に表れてきているように感じる昨今である。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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