自分に嘘をつかないように。

ぼくらは、しょっちゅう嘘をつく。

疲れているのに、仕事で大丈夫?と聞かれて、大丈夫です、と答えたり。楽しくないのに、楽しいです、と答えたり。

4歳の息子を見ていても、よく嘘をついているし、まったく、嘘をつかずに生きている人はいないと思う。また、必ずしも嘘をつくことが悪いわけではない。子供に、「サンタさんているの?」と言われて、「いないよ」と答えないように。

優しい嘘は存在する。嘘によって、人を傷つけなかったり、優しく関わることもできる。

時に、嘘は必要だと思う。でも、嘘をついていけないこともある。それは、自分への嘘だ。自分への嘘とは、好きじゃないのに好きいう、やりたくないのにやりたいという、辛いのに辛くないというようなことだ。

嘘をついている時、それが嘘だと認識できているならいい。でもいつもまにか、その嘘が、正当化のための理由になっていたり、見たくないものを見ないためのものになっていたりする。真実を見てしまうと、辛い、苦しい、痛い、と感じる時に、無意識に嘘という形で対処しているのかもしれない。

ぼくは、これは良くないと思う。他にも、あなたのためなんだよ、と言っていることが、実は深いところで自分のためでしかない、ということもよくある。こういう自分への嘘を積み重ねていると、いつしか自分のことがわからなくなっていく。

嘘で塗り固められた自分が、自分自身だと思うようになっていく。

だから、自分を生きる、という不思議な表現が生まれる。自分を生きるなんて当たり前なのに、それすら難しいのが僕たち人間なのだろう。ではどうやったら、その嘘がわかるのか。

最近、「頭より心。心より身体。身体より魂。」という順番があるのでと思うことがあった。

一番いろんなことを考えるのは、「頭」だ。エゴや正当化、あれこれ考えるのも、「頭」が行う。思考と呼ばれるものだ。これは、「論理」っぽく見えることが重要で、よくよく嘘をでっちあげる。

次に、「心」だ。ここでいう「心」は感情だったり、感じる、と表現されるレイヤーのことだ。例えば、喜怒哀楽のうち、怒りが湧くときは、むかつく、ふざけるな、と他者を糾弾・罵倒するような言葉が出てくるが、この奥にあるのは「悲しみ」だったりする。心の声を聞く、といっても難しい。

その次が、「身体」だ。何か疲れている、元気が出ない、身体が痛い、そういう身体の声だ。身体は、基本的に嘘をつけない構造になっているように思う。身体は物理的な現象であり、あるものはあるし、ないものはない。

そして更にその奥にある気がするのが「魂」と呼ばれるようなものだ。何故か理由がわからないけれど、こっちな気がする、これは違う、という直観が働くことがある。頭で考えたら絶対こっちだけど、何か違う気がする、、、という違和感として訪れることも多い。人生の意思決定はだいたいこの領域から行われている気がする。この領域は、とても身体領域と仲がいい。身体を通して、その奥にある声を聞いている感覚もある。

ここで重要なのは、頭、心、身体、魂というときに、「頭は嘘をいっている」と頭を悪者にするのではなく、「頭はこういっているのだな。ふむふむ。でも、心と身体は違うこといっているぞ」みたいに、自分自身に起きていることをただ観察できることなのだろう。

繰り返すが、自分への嘘は良くない。嘘をつけばつくほど、分からなくなっていくから。

最後に、魂だなんてスピリチュアルなことを書いてしまったが、屋久島に先週まで滞在し、あまりにもいろんな事がありすぎた。もののけ姫の舞台ともいわれる、神々の住まう島、やっぱり、そういう世界はあるよな、と思わざるを得ないことがたくさん起きた。

そしてこの「魂」領域の特徴は、実は身体のように、一人ひとりで分けられない、不可分な気がすることだ。視覚上の境界や分断とは別物として存在している気がする。つまり、この「魂の声を聞く」とは、「例えば、屋久島の声を聞く」と深いところで繋がっている気がするし、これを見ている、「あなたの声を聞く」とも深く結びついている感覚がある。

怪しげに聞こえるかもだけど、そう思っているのだからしょうがない(この文章に、自分への嘘はない、はず)。とにかく、屋久島で出会ったすべてに感謝申し上げたい気持ちだ。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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