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世界に触れている、という実感。

ある現代アート展示に足を運んだ。興味深い展示もあったが、一つの作品以外、びっくりするほど、心が動かなかった。

観念が重要であるということで現代アートが成立しているから当然かもしれないが、僕はこの現代アートという枠に馴染むことができないのだな、と痛感した。逆に、何故そう感じてしまうんだろう、と考える機会になった。

単純に受け取る器が出来ていないこともあるが、もう一つ出てきたのは、「世界に触れている実感」という言葉だった。不思議な言葉かもしれない。僕たちは、この瞬間も、この世界を生きているし、呼吸をして、人と会話をして、ご飯を食べて、排泄して、いろんなものと日々関係しあっている。世界に触れていない時間などない。

では、僕にとって、「世界に触れている実感」を持ったのはいつだろうと考えた。思い出すのは、初めてサーフィンで波に乗れた瞬間。あの瞬間の喜びは、確実に「世界に触れている実感」があった。また、葉山で夕日を眺めている時。瞬間瞬間、空と海の色が移り変わっていくとき、「世界に触れている実感」に溢れている。

そして、ハノーファーでのジェームズ・タレルの作品。あの瞬間、生まれて始めて「光を体験した」という衝撃があった。日々光を浴びているのに、「光(世界)に触れている実感」がなかったのかもしれない。

更に、新作の connecting という作品。屋久島に1週間以上滞在しながら制作にのめり込み、葉山に戻り、素足で海の中に足を入れた瞬間。はっと、葉山と屋久島は海で繋がっているのだ、という強烈な身体感覚が湧いた。

こう書いていくと、「世界に触れている実感」とは、何らかの新しい知識を得ることを意味していないようだ。世界を知ること、ではない。うまくいえないけれど、とても微細に、繊細に、鮮明に、そして強烈に、この世界に触れた身体感覚が湧いた時、「世界に触れている実感」が訪れるのかもしれない。

僕は学生時代に物理学を学び、量子力学といった摩訶不思議な世界に触れたことがきっかけとなり、この世界は人間が理解(認知)できるようにできている必然性はないと考えるようになった。人間がこうあって欲しい、こうなって欲しい、という願いとは関係なく、この世界は存在している。

人間の脳は、奥深く、微細で、不思議に満ち溢れたこの世界を、直接的に認知できるようになっていない。現実を抽象化・モデル化し、理論や思想を介して、間接的に、かつ近似的にこの世界を理解する。

ただ、ふとした瞬間に、この世界の認知が、とても深く訪れることがある。それが、「世界に触れている実感」の瞬間であり、この抽象化・モデル化の膜を超えて、現実そのものに近接した瞬間でもある。

僕は、その瞬間に、恋してしまっているのかもしれない。レイチェル・カーソンは、sense of wonder といったが、この不思議で満ち溢れた世界を、繊細に、鋭敏に、強烈に、体験していきたい。死ぬまで、この世界に驚き続けたい。いや、死ぬ瞬間すら、この世界を鮮明に体験していたい。

そんな欲求を思い出させてくれた。はじめに、心動かなかったと書いたが、はじめに、心動かなかったと書いたが、今回の現代アートの展示は、これらの言葉と思考をもたらしてくれた。人の認知に揺さぶりをかけるアートという意味で、とても素晴らしい展示だったのかもしれない。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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