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雑誌の映画化『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』の感想。

憧れを具現化するアンダーソン

彼の映画を語る時、絶対出る言葉は「おしゃれ」「カワイイ」だよね。
何でこんなに「おしゃカワ」に感じるんだろう。
それは彼の映画が自分の憧れたもの、好きなものを題材にするから。
でも現実は憧れとは違うし、頭の中のイメージを形にしたり言葉にしたりするのは凄く難しい。
それをやってのけるのが彼の映画で、だから素敵に感じる。でもそのコントロールされた「おしゃカワ」世界が、物語中にほころびを見せ始めることがある。「かわいくない現実」とかなんだろうね。
完璧に見えて、完璧すぎない彼の映画が僕は好きだ。

今回の憧れは「雑誌:ザ・ニューヨーカー」。
綿密な取材と、分かりやすい文章で人気を博した1925年発行の情報誌。
劇中で「町に世界を届けた」と語られる。
幼いアンダーソンもこの雑誌で世界を知ったのは間違いない。
フランスへの憧れは言わずもがなだね。

雑誌への憧れは色んな所に現れる。
雑誌のカラーページや二色刷り、統一されない画面サイズ、多様に表現される。監督自身が「やりたいことは全部やるって決めたんだ」と言ったとおり、今回は演出や表現がさらに豊かになってる。
他には、独立した物語三つで構成されるオムニバス形式。
例えば、少年ジャンプでも各漫画に物語上の繋がりはないよね。それと一緒で三つの物語上のつながりはない。
でも、もちろん映画だしテーマはある。それを探っていこう。

なぜ、カラーとモノクロに切り替わるのか?

物語は、記者の取材した物語なので時制は過去になるよね。だから僕は最初、過去の話はモノクロ、現在がカラーになってるんだと思った。
でも、最初の自転車タイムトラベルからして何か変だ。
分割された画像で左側にモノクロで過去が、右にカラーで同じ場所の現在が映される。にもかかわらず過去の肉屋はカラーになり、右の映画館っぽい建物はモノクロになっている。

三つの物語でも時制を無視してカラーになる。
「確固たる名作」では主に絵がスイッチを押したように同じ時代でカラーとモノクロが切り替わる。

「宣言書の改訂」では、現代の若者同士の会話シーンがカラーなる。大人と若者の戦いはモノクロのままだ。覚えてる限り大人がカラーだったことがない。

「警察署長の食事室」は分からない。料理はカラーなのにネスカフィエがカラーになる事はなかった。料理を紹介したいならなぜ彼がもっとピックアップされないのか。マンガはカラーに含まれるのか?

雑誌という事なら、記事がモノクロで写真がカラーなのかもしれない。
なら写真がカラー、つまり見せたいものがカラーになる。
だから今回はカラーになっているものを考えてみた。

恋と肉欲と郷愁。

三つの独立した物語に関連するテーマは愛なんじゃないだろうか。
シモーヌの愛情表現としての絵が頻繁にカラー化する。
若者二人のセックスまでの過程がカラー化する。
親子の愛情シーンはマンガで表現。でも移民たちの郷愁はカラー化されなかった。

恋する男は囚人だ。

第一話:「確固たる名作」
男女間の恋愛を囚人と看守に置き換えてる。「売り物じゃない」ってセリフはこの気持ちを売るつもりはないって意味なんだろうし、コンクリートの壁にシモーヌの連作を描くのも動かしがたい気持ちやシモーヌへの愛情の表現なんだね。
彼らの関係を詳しく解説してる方がいた。リンクの記事もぜひ見てほしい。

とにかく、芸術をテーマに愛について語ったのがこの話。
この話が一番すっきりしていて好きっていう人も多かったね。
ベニチオ・デル・トロがかわいく見えるって珍しくない?

戦争よりセックスだ。

ティモシー・シャラメが童貞を恥ずかしがり、全裸で走る。
色んな意味で心の悲鳴が聞こえる第二話:「宣言書の改訂」
「ことごとく意義あり」って言葉が若者たちの気持ちを端的に表してるよね。

彼らは国に、何に対して抗議しているのか?
「全てに」だ。それが「ことごとく異議あり」のもう一つの意味だ。
戦争にも、抑圧的な社会にも、異議がある。でも、その抗議で対話の役割を当たすのが「チェス」っていう戦争ゲームなのはブラックジョークだよね。

謎の修羅場シーン、ルシンダとジュリエットが、ゼフィレッリをそっちのけで口論し始める。この時ゼフィレッリはうろたえ、チェスさえもすっぽかし、最後はジュリエットと一緒にその場から逃げてしまう。
その後、二人の逃避行からエッチするまでの過程がカラーで映される。死後キャラクター化され消費されていくシーンもカラーだった。
みんなのリーダー、ゼフィレッリは童貞を気にするセックスに興味津々な普通の男のだった。彼の最後の詩は国への抗議ではなくて、規制を恐れずに書いたセックスの詩だった。まぁ、ルシンダによってカットされそうになるんだけど。でもこれも、「愛」なのかなぁ。
若者の粗削りな気持ちや行動が最後には性愛に向かっていく。そんな話。

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ノスタルジーっていう郷土愛

第三話「警察署長の食事室」は不思議な話だ。
警察署長の息子の誘拐話なのに、最後はネスカフィエの話になる。
正直この話は、よく分からない。
カラーになるところは、マンガの時と、あとは料理+作戦会議では作戦内容がレシピであるかのようにモノクロで、料理はカラーになっている。

最後に語られるネスカフィエの言葉は、味の話なのか故郷もしくは自分のルーツへの郷愁なのかが少しわからない。どのみち味も郷愁も写真にはできないせいかモノクロで表現される。

記者のローバックも、所長も、ネスカフィエも移民って設定だ。特にネスカフィエが日本で生まれパリで画家をした「藤田嗣治」にすごく似てる。演じたスティーヴン・パークは韓国にルーツを持つ人なんだけどね。

名称未設定のデザイン

いくらなんでも似すぎじゃない?

この藤田って人は戦争に翻弄されながら日本、アメリカ、パリと移ろいながら画家として生きた人なんだ。そういう事を考えて僕は郷土愛の話だと無理矢理にこじつけた。みんなはどう思ったんだろう?

わたしのオフィスで泣くな。

ウェス・アンダーソンの映画はいつもカリスマ的な存在が死ぬ。それがトリガーになってることが多い。
その死が何を意味しているのか。
私のオフィスで泣くなっていうのは自分が死んでも泣くなって意味なのか。
それともモデルの人物の口癖だったのか?
「意図が分かるように書け」ってセリフもあったけど、彼の映画の意図が分かるようになる日がいつか来ると良いな。
でも今は「おしゃカワ」を楽しむことで良しとしよう。

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