嘘、はじめました。

今日は10時にネールサロンを予約していたので、10時過ぎになってそろそろ家を出るかと思っていたら、サロンのお姉さんから電話がきた。
「今まだ家だから出るとき連絡するねー!」

結局家出たよと連絡来たのはその30分後で、サロンに彼女が着いたのは1時間後だった。
ここで初心者さんはプロフェッショナリズムや責任感の欠如についつい怒ってしまいがちですが、ここで、注意です(現実チャンネル風に)。
この国には予約というシステムは存在していても、予約という概念が存在しないので、いわば当然のこと。
そりゃあ、何が起きるかわからない未来の時間など仮押さえできるわけもなく、事情が変われば予約なんていとも簡単に無効化されてしまうのだ。
それを知っている私は空いた時間に優雅に朝食を取り、なんなら遅れてくれてちょうど良かったわと思いながらサロンに向かった。
サロンに到着するとニコニコしながらお姉さんが「朝食もってきてくれなかったの~?お腹ペコペコだよー」と文句を言っている。

「しらんがな!」と突っ込みいれるわけにも、もちろん「私はあなたが遅刻してくれたおかげでゆっくり朝ごはんが食べれたよ」とも言えるはずもなく、当たり前のように「私もまだ食べてないよー」と嘘をついた。
脳みそが働くよりも前に口から自動的に嘘が出てくるのである。

誰になんと言われようが胸を張って言えることは、私はアフリカ歴若干3年目にして、ポルトガル語以上にこの「その場しのぎの嘘」能力がほぼネイティブレベルに上達した。
日本人たるものなんという有様だろうか。「真心」「誠意」「仁義」などという言葉が大好きな日本人からは画面越しですら軽蔑の視線が伝わってくるほどだ。

読者のみなさんに自分の人間性を誤解してほしくないため、今日はここ(モザンビークやアンゴラの社会を代表として)における「その場しのぎの嘘」のもつ力というテーマで語っていきたいと思う。

前回の記事では「所有概念」の違いについて書いたが、他にももちろんたくさんのカルチャーショックがあった。
そのひとつが、人々が当たり前のように平気で嘘をつくことだった。

嘘をつく必要のないことまで、なぜか嘘をつくのだ。
嘘のバラエティーは多岐に渡っており、挙げるとキリがない。
日々小さい嘘をつかれまくって最初はそれを信じて振り回されていたけれど、次第に嘘のパターンやどんな事象に対して嘘をついているのかがわかるようになった。

そして気付いたのは彼らがつく嘘のほとんどが相手を気付つけないため、残念な気持ちにさせないため、もしくはその場の空気を壊さないための嘘であるということだった。
それができないことと分かっていてもネガティブな返答は嘘をついてでも避けて通るのが彼らの当たり前だった。

絶対にすぐに入荷するはずのない商品も聞けば必ず「明日には入るよ」と言われるし、私の誕生日パーティーに招待すれば100%の人から(物理的に絶対に無理と分かっていても)「もちろん行くよ!」と返事が返ってくる。
みんなで耕した田んぼも私がモザンビークを去ったあともずっと「うまくいってるよ」と言われ続け、結局成育する以前に全部のお米が鳥に食べられてしまったのを知ったのはかなり後のことだった。
また別の例では、家の机を大工に2つ注文して支払いしていたのにもかかわらず、1つ目は納品されたけど2つ目がいつ聞いても「今作ってるからあと2週間でできる」と言われ続け、結局任期が終わるまで納品されることはなかった。さすがに支払いをしていた手前、毎回行っても出来上がってないどころか作ってる気配すらないことに怒り心頭だったが、同時にどれだけクレームされても嘘を突き通す粘り強さにあっぱれだった(それでまかり通ると思っているのが驚きだった)。ちなみにこの件はさすがに怒って友達に助けを求めたけど、「最初にMAIKOが支払ったお金全部使っちゃって材料買えなくなっちゃったんだよ~ははは~」と何とも呑気な感じだった。良くあることなのだろう。


私たち日本人は人と人とのコミュニケーションに誠実さを求め、当然のようにその言葉を真に受け信用する。なので言葉はある種の誓いとなり、その言動通りに行動がされないことに不都合や不誠実を感じる。
他人の言葉が信用できるからこそ、計画を立てることも、それを実現することができるのである。

一方、嘘が当然のように飛び交う社会では、言葉は真実の媒体として機能しておらず、まったく違う意味をもったコミュニケーションツールなのだ。非常に不確実で、曖昧で、風船のキャッチボールのような感じだ。
ではどうして嘘をつくのか。私はこの理由として大きく分けて2つの解釈にいたった。

まず一つ目はそもそも信用社会ではないので、言葉の果たす役割が非常に小さいということ。みんながみんな話半分で聞いているのでそもそも嘘をつかれても大きな問題にはならない。ずっと故障中のATMが明日にはなおるよと言われて翌日行ってまだなおってなくて怒る人など誰もいない。むしろなおってたら超ラッキーというスタンスでみんな生きている。
また計画には真実の伝達が欠かせないけど、そもそも計画への期待がほぼ存在していないので、ここにおいても言葉の果たす役割が小さい。

もう一つ目は、真実を伝えない、知らないことは、ある種彼らがより明るく前向きに生きていくための手段なんじゃないかと。
それが真実だとしても、知って悲しくなったり残念に思うことなら知らない方が良いし、伝える必要もない。
この厳しい現実を生きる彼らにとって「希望」はいわば命綱である。
そこに1%でも希望があるのであれば99%の真実もしくは事実よりも、1%の希望をもって生きていく。
そうやって「その場しのぎの嘘」を巧妙に繰り返しながら、誰も傷つかないような優しい曖昧な世界観を築き上げているのだ。


そんな風に思うようになってから、私も悲しませる真実であれば嘘を選ぶことにした。
何かモノをねだられたときは、「できない」じゃなくて「今はないけど次に渡すね」と伝える。
全然興味のないイベントに誘われても「きっと行くよ」と伝える。
あまり自分の好みじゃない洋服でも、どう?と聞かれたら「とっても素敵だよ」と伝える。
いつか日本に行くんだと夢を語られたら、それがどんな大変なことと分かっていても「きっとうまくいくよ」と伝える。


数年前の自分だったらなんて不誠実で偽善的な人だろうと思うと思う。
責任のがれだし、現実逃避と言われても仕方がない。
私も以前は真実に忠実であることが何よりも価値のあるものだと信じていた。
でも、今では、それができるのは真実と向き合えるほどの生活の安定感とか、誰もが自分に誠実であるという社会の前提があってこそだったと気づいた。
ここでは真実を知ることよりも希望をもって生きていくことの方が何倍も大事だと今は思っている。
当の私も、この「その場しのぎの嘘」に何度も救われてきた。
(もちろん大工のような半分詐欺行為にもあたるような嘘は優しい嘘でもなんでもないわけで、そんな嘘はつかないし、ついてほしくはない)



みなさんは、「その場しのぎの嘘」をそれでも不誠実だと非難しますか?
私は自分は誠実でありたいと思うけど、それと同時に嘘のもつ魔法の力が、ここの人々が希望をもって前向きに生きるための支えになってると感じたことで、誠実さだけが必ずしも正義ではないという新たな価値観に出会うことができた。

どっちが良い悪いじゃないけど、優しい嘘が当たり前のように飛び交う世界もそう悪くはないんじゃないかな。






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