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人生は回収されない伏線だらけ

物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない

これは、村上春樹の小説1Q84の中に出てくるセリフで、チェーホフの銃と呼ばれる伏線回収のルールだ。小説や劇、ドラマに持ち込まれた要素は、すべて意味を持たせなければならない。このルールを守らないストーリーは不完全なものとみなされる。

一方、私たちの人生は回収されない伏線だらけだ。何の意味があるのかわからない出来事が次々起こり、その理由や答えは決して明かされない。自分で何らかの意味付けをしてみても、それはきっと出来の悪いこじ付けのストーリーにしかならない。私の人生の前半(と思いたい)に突然登場したチェーホフの銃はまだ発射されないまま机に置かれたままになっているけれど、私はその意味を知りたいとも思わないし、もちろん発射されたら困る。

話は変わってトップ画像は、ロールシャッハテストと呼ばわれるインクの染みが何に見えるかとうテストに使う画像だ。私には、犬みたいな顔のまぬけな悪魔の顔に見えるけれど、これが何に見えるかは、大した意味はないと、私は思う。あいまいなものには自己の無意識が投影される、ということで、それはきっとその通りだけれど、あいまいなものに限らず、あらゆるものに自己の無意識は投影されているのではないだろうか。

人生もインクの染みのようなもので、大した意味なんてないと私は思っている。私が死んだら、ルイヴィトンのタバコケースに入れたセブンスターをいつもひっきりなしに吸っている、地元の真宗大谷派の住職に、お経をあげてもらって三途の川を渡る予定だ(そんなものがあればだが)。彼が本当に仏を信じているのか、私は疑わしく思っているけれど、仏なんて信じていなくて、彼が商売としてお寺の住職をやっているのだとしても、それでも私は別に構わない。人が生きて死ぬというのは、結局はそういうものだと思っている。これは人生に意味を感じられないというニヒリズムでもシニシズムでもなく、ここまで生きてきた、私の実感だ。よくわからない世界をよくわからないまま生きて、よくわからないまま送られていく。

人生や生きることに過度な意味付けを行わずに、そのあいまいさに耐えることができるれば、自分や周りの感情に流されず、フラットに生きることができる。どんなに努力しても報われないかもしれないし、突然病気で死ぬかもしれない。逆に大して努力もしていないのでいろいろなことがうまくいったり、周りから身に余る高い評価を得たり、賞賛を浴びる人生をおくることになるかもしれない。

でもきっと、そのどちらも大した意味はなくて、たまたまそうなっているのだ。なぜそうなったのかを考えても答えはわからない。なぜ私の机の上には何十年も銃が置きっぱなしなのか、なぜインクの染みが情けない悪魔に見えるのか、その意味を考えて思い悩むのではなく、そのような回収されそうもない伏線を抱えながら、自分の人生を生きていくことになるのだろう。

そうやってあいまいさに耐えながら生きる人生の方が、あらゆることに意味付けをしながら生きるよりもずっと豊かな人生だと、私は思う。



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