見出し画像

とにかく言語化_私がnoteを続ける理由

「私この喫茶店が好き あなたがいろいろな話をしてくれるから」

今日妻と家の近くの喫茶店で話をしているとき、彼女にそういわれてドキッとした。

彼女が私の話を聞きたがっていると私は思っていなかった。私は普段不必要な程無口だ。逆に妻は自分が話したいことを全部話し終わるまで話すことをやめないので、普段の会話は妻が一方的に話をして、私が相槌を打つスタイルになることがほどんど。もう何十年もそうやって二人で暮らしているからそれが当たりまえのつもりだったけれど、彼女にとっては私が何か彼女に話をするということは大切なことなんだと、今更のように気が付く。

私は自分の頭の中にあることを口に出して伝えることがあまり得意ではない。言葉にしてもうまく伝えられない、間違って伝わるくらいなら何も言わないほうがいいと思ってしまう自分がいる。話し始めた瞬間から、もう自分の伝えたいことからずれていってしまうもどかしさ。

頭の中に渦巻くいろいろな想いや感情。それは全く秩序もないし、ひとつのことについて正反対のことを同時に考えていることもあるし、不誠実さや不寛容などの表に出すべきでない感情も同時にそこに存在している。そんな頭の中を整理して、言葉にすることはとても難しい。話した後で、そのほとんどが全て間違っていると後悔することも多い。単純にわたしには話す力がないのだろう。無口さを正当化している私は、相手に自分の想いを口に出して伝える力を育ててこなかった。

話すこと。それは常に聞いてくれる相手を必要とする。だからそれは純粋な私の想いを言語化したものではなく、話す相手が何を知っているか、何を聞きたがっているかによって変わるし、相手の返答によって大きく話の流れが変わっていく。コミュニケーションとしてそれは完全に正しいことだとおもうけれど、でもそれは私が求めている頭の中の言語化とはやっぱり違う。

私がしたいのは、そういう相手を必要とする会話から少し離れて、私の頭の中、心の中深くにある様々な想いを静かに見つめて、それを丁寧に日本語に置き換えていく形の言語化だ。そのために私はnoteを書いている。最初の1つ目のnoteからもう500くらいの文章を書いたけれど(もう数えるのをやめてしまった)、そのすべてを私は私のために書いている。自分の頭を整理するため、自分の心を整理するために。



他の誰のためでもない、自分のために書き続けるnote。
そして私は、私のnoteを何度でも読み返す。


そこには確かに、私がいる。



この記事が参加している募集

noteでよかったこと

noteのつづけ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?