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20230619 継承という創造(後編)

 昨日読んでNOTEに書いた以下の論文,自分の関心に合致しすぎて1本のNOTEにまとめられなかったので前後編とし,今日は後半について書こうと思います。
 
渡邊洋子 (2013). 8 「祭り」という文化伝承・継承空間. 円環する教育のコラボレーション, 120-131.

 論文の後半部分は,主に祭への参加の時期による学びや人間形成の違いについて記述されており,博多祇園山笠をみていて祭当日よりもその準備の段階の方が面白いなあと思っていたところなのでその点について学問的な説明を与えてくれてありがたかったです。
 

①「祭りに向けて」-準備開始から当日までの準備プロセス
 祭りによっては、前の祭りが終わった翌日から、次の祭りへの準備が始まる場合もあるでしようが、多くの場合、前の祭りが終わって一定期間を経た後、すなわち「ハレ」の興奮が静まって「ケ」の状態に戻ってしばらくした後、厳粛な儀式とともに祭りの準備が開始されるようです。
 その儀式は「伝承」されてきた様式と手順でおごそかに行われ、それを端緒として、祭りの前の地味で地道な、特にモノに関わる準備作業や歌、踊り、所作などの稽古が開始されます。この段階で、上の世代から下の世代へ、ベテランから新人へ、中心部にいる者から周辺部にいる者へと、伝統的価値が伝えられていきます。それは裏返せば、継承する者が学び取ろうとする努力や工夫など、自覚的な取り組みを見せるプロセスでもあります。
 またこの期間は、主たる担い手間の伝承継承と同時に、「正統的周辺参加」言われるインフォーマルな学びのメカニズムも機能しています。祭りには、中心的に担っているおとなや青年男女の姿があるだけではありません。その周辺にいる子どもや転入者、外来者などは、その場や空間を遠巻きに共有する中で、知らない間に、祭りの雰囲気、準備のしかた、進め方や分担のしかた、しきたりやルール、倫理的規範や文化的価値などを、知らず知らずのうちに身につけていきます。
(中略)
 準備段階では、所与の場面や状況の中で、各々のメンパーが自らの責任を果たそうとすればするほど、役割や仕事に付随した知識や技能が体得され、インフォーマルな活動や関わりの中で、役割を遂行する能力が培われていきます。また、一人一人の特技や長所、性格などに応じた仕事の割り振りの中でお互いを知りあうことが可能になり、話したこともない相手と知り合う場面が生まれ、顔見知りの人についても、以前とは違う環境の中で新たな発見をしたり、仲間として刺激を与え合ったりすることが多くなります。こうして、準備メンバーの中での自らの役割や貢献可能性に自覚的になり、自治意識や連帯意識が生み出されていくと言えましよう。
 準備段階に関わってもうーつ重要なのは、参加するコミュニティの人びとが、好むと好まざるとにかかわらず、祭りの遂行のために、役割分担や協力体制を組んで臨むものであるという点です。
 通常は、あまり接点も関わる機会もない世代や属性の人々と、共通の目的のために意思疎通し、合意形成をはかり、問題解決しながら協力して準備作業を担っていく中で、地域の人々との新たな関係性や親密性が生まれます。  同時に、経験や価値観、利害の相違から、摩擦や衝突、葛藤や悩みが生じてくることも少なくありません。これに対しては、飲食など交流の機会を設けるなどして、問題を回避・最小化する知恵や工夫がなされる一方、準備作業や当日に向けての結束に支障が出ないようにするため、問題解決にむけた話し合いが不可避になる場合もあります。このプロセスに真摯に関われば関わるほど、対人関係を軸としたコミュニケーション能力に加え、実践的な問題解決能力が磨かれることになることは想像に難くありません。

 どの文も貴重なので引用ばかりになってすみませんが,正統的周辺参加が起きるプロセスについて,どのように各人に役割が付与されていき,役割を果たすことで各人がそれぞれに自主的に関与できたという自己効力感を得られるシステムが存在し,そこから何を学ぶことができ何をみにつけていけるのかについて細やかに具体的に,けれどもケース報告ではなく研究として検討しうる心理学的な概念や変数を用いて説明してくれているので非常に貴重だなと思いました。 

②「祭りの中で」一当日の儀礼的な荘厳さ・静けさやクライマックスの喧噪の中で
 祭り当日は、多大な努力とエネルギーを投入してきた準備作業の集大成であり、「ハレ」そのものです。中心部にいる人たちは、本番を無事に成功させるために、全体と個別への入念な最終確認を経て、本番に臨みます。
 担い手たちは、ビンと張りつめた雰囲気の中で集中力と緊張感を研ぎ澄まし、心身のエネルギーや感情を一気に最高潮に高め、発散/燃焼/爆発させます。また外部者(見物者)は、担い手に自らを投影させながら、その「場」を徐々に共有しつつ、同じ境地に入っていきます。祭りの場は、担い手と外部者が同じ空気の中で、神聖なものへの心情、内面から湧き上がる純粋な感動や、莫大なエネルギーをともに分かち合い、その進行とともに徐々に融合し一体化していく空間であるとも見ることができます。非日常性の中で味わう「自己」への実感は、自己確認・自己表現・自己実現のいずれをも含みつつも、いずれの言葉にも集約しきれないものと言えましよう。またその空間を共有する準備仲間や外部者たちとの何とも言えない一体感や連帯感には、「陶酔」や「自失」にも似た、独特の感情の表出を生み出すのです。

 こちらの記述も,準備期間とはまた違う祭という非日常の中で個人がどのように祭に没入していくのかについて自己概念や感情体験などから詳細に記述してくれているのでありがたいなあと思いました。
 

③「祭りを通して」一祭りへの参加を契機として
 「ハレ」である祭りへの参加から「ケ」である私たちの日常生活に戻るプロセスは、多くの場合は心地よい疲労とともに、脱力感や倦怠感を伴います。ですが、それは同時に日常生活の中に、思わぬ副産物をもたらすことが少なくありません。とりわけ、日常空間の変容が見られるのは、祭りが終わった後に、気がつくと地域に新たな知人や顔見知りができており、人と人との新たなつながりやコミュニケーション、さらには情報源が生まれるということです。祭りが地域おこしの起爆剤として期待されるのは、このような副産物がとても重要な地域資源になるからです。
 また祭りへの参加をきっかけに、これまで「住む場所」でしかなかった地域に愛着が湧き、「暮らす」場所としての地域という観点から、地域の再発見ともいうべき気づきが生まれることもあります。「地域のことを学びなさい」と言われるまでもなく、祭りの昂揚感のかすかな余韻が、地域への親しみの感情をはぐくみ、従来、生活の中で気に留めることもなかった身近な事物、事象や活動(例えば、地域の商店や産物、子ども行事や自治会組織など)を改めて見直してみる機会にもなり得ます。とはいえ、おそらく、このような気づきは、すべての人が得られるものではなく、それが生じるかどうかは、その人が祭りにどう参加したか、また地域の中に「ハレ」と「ケ」をつなぐ「しかけ」があるかどうかによって変わってくるでしよう。単なる消費者=傍観者としてテレビ視聴と同じようにみていた人に、同じことが起こるかどうかは、検証してみる必要があるかもしれません。

 そして祭体験のあとに,そこで得られたものによっていかにして参加者が地域に結びつけられていくのかについても細やかにかつ検証可能性な用語で説明されていてすごいなあと思いました。
 そして最後の,地域の中に「ハレ」と「ケ」をつなぐ「しかけ」があるかどうか?という記述についてですが,山笠の場合本当に終わった後の「ハレ」が一挙に消えて数時間,いや数十分後には「ケ」に博多の町が一挙に変身することを体験することを通じて,参加していない,みていただけの人も祭の参加者と同じような脱力感や倦怠感を体験出来,それが「見る山のぼせ」を大量に発生させることができているのでは?などと思ったりします。

 このあたり,参加者だけではなく見学者にも地域への愛着を生むことができる祭りにはどのような「ハレ」と「ケ」をつなぐ「しかけ」があるのかについて,山笠を題材にまとめたいなと強く思いました。以前出して落ちた「見る山のぼせ」に関する科研費の申請書類を書き直しますかね~。

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