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ハンガリーへ行くはずが実家暮らし73日目

ハンガリーへ行くはずが実家暮らし73日目。
日日是好日という映画を見た。

日日是好日。にちにちこれこうじつ。
簡単に言ってしまえば、"毎日はすばらしい"みたいなことです。
映画ではもっと、日と、日と、是と、好と、日という漢字でこの字が成り立ってますよ、と言ってるぐらいゆっくりと、それぐらい一つ一つ、丁寧に春夏秋冬、13年ほどの月日を1時間半におさめていてすばらしい。
"丁寧に13年間を1時間半に収める"っていう言葉の時点で、その難しさがわかっていただけると思うが、ちゃんと映画では実現されていた。

茶室に流れる時間を味わったことがないが、映画を見ながら、その時間の感覚は茶室以外でもだれもが知っている時間な気がした。ただ多くはそれに向き合ったことがなく、ふいに訪れるときにその時間を愛おしく思う、といった程度のものだと思う。茶室にはそれがぎゅっと詰まっているのだろう。

意味がない、にすら意味がない。

意味なんてねえよ、という言葉にドラマがあるように感じてしまうが、ドラマなんて本当にない。信じがたいが、僕はそこに清々しさを感じる。
茶室で繰り広げられる作法に、意味なんてない。どうして?なぜ?がいらない。
そんな世界を待っていた。

僕は近頃、目標を持たないことを「あえて」している、と言ったが、それは文章で書く上でわかりやすくしたかったからそう書いただけで、本当は「あえて」もクソもなく、
目標をもたない。なぜ?いや、わからん。
どうして?いや、知らん。なんか、もたない。
というのが本音であります。

なんとなくそれかっこいい感じがするんかな、なんとなくいつかそこに意味があるように感じるだろうな。けど今はわかんない、なぜなんて。作法には答えなんてなく、システマティックに、かつ美しく(そう感じるだけかも)している。なんとなく、ただそれだけ。

いいなぁ。日本の心っていうのは。
そしてこんなものを伝え続けているのって本当に素敵なことだなと思った。

なんとなく良くない?

いやわからんけど。なんとなく。

というその曖昧さ、不確定さを何年も何年も伝え続けているという茶室は、じつは僕の知らないところではどろどろとしているのかもしれないし、悲しいかな現実では意味を持たせてしまっている部分もあるのかもしれない。

けれど本来は意味ではなく、

そこには連想がある。

つながりが流れていき、その流れの隙間に入り込む想像力が、その日の、僕にとっての真意になり得る。

中島らもさんが、"詩は一瞬で矢のように真意を撃ち抜く"というようなことを残されていたが、
それに近いのだろう。

僕は映画を見て、
作法(無意識で、習慣となっている、身体的に律された動き)というものがなぜ重要なのか、わかった気がした。
"なぜ"なんて無いものに、"なぜの重要性が分かった"というのはいかにも胡散臭い。
だから本当は分かってなどはいないが、わかった気がした一瞬がたしかにあった。
今は忘れてしまった。忘れてしまっていい。
ただそうして、意味なんてないものに日の光は1日一度、かならず差し込む。その日の光が妻のなみだにみえる日もあるし、昨日の残り雨に見える日もある。漫才師の舞台上のツバにみえれば、父の歯軋りの音に聞こえる日もある。
そのまま日の光に見える日もあるし、見逃して見えないこともある。

わからないことを、こうしてわからないままにしておくことに、こんなにスッキリすることがあるなんて知らなかった。

僕は日日是好日を訳すなら、
毎日ってすばらしいよね、しらんけど、
なんかなんとなく、なんだっけ、そうそう、なんか、あれだよね、ほんといいよな。よなとか言っちゃった今日。

と訳すことにしました。

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