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第11章:他者への共感は自己の経験から湧いてくる

哲学者アダム・スミスは著書『道徳感情論』の冒頭で、人間の共感能力について、次のように述べています。

<アダム・スミスの考え>
人間がどれほど利己的であるとしても、
人間の本性には「他人の幸福」を
必要とする原理がある。

人間を、ただ利己的な存在ではなく、他者の幸福を願い、他者を思いやることができる「共感能力」を持った社会的動物であると捉えています。

わたしもこの考えに激しく同感です。
自分の欲求が満たされるだけでは本質的な幸せを感じられないのは自分の体験を通じて否定しようのない真理だと考えます。

わたしたちは、困っている人を見かけると、自然と不憫や哀れみといった感情が湧いてきます。

反対に、喜んでいる人や楽しんでいる人を見るとこちらまでわくわくしてくることもしばしばあります。

また、同じ考えや感じ方を持っている人と出会うと、とてもうれしい気持ちになり、自分の考え方が自分だけの感覚ではないことの自己肯定にも繋がって安心したりもします。

これらの「共感」は、その他者の感情や立場を理解し、自分の立場に置き換えて想像することができる「想像力」をわたしたちが持ち合わせているからだと考えられています。

そこで、今回のテーマについて、わたしの考えの結論を先に述べたいと思います。

<まつおの考え>
他者への共感は、自分の体験を通じた
理解の蓄積」から湧いてくるもので、
その共感の連鎖が社会を豊かにする

もう少し踏み込んで、わたしの考えの要素を2つに分けると次のようになります。

1. 共感の連鎖によって人々が困っている人を応援したくなる。
その応援によって、社会がより一層豊かになる。

2. 幅広く共感できる人間となるためには、
たくさんの理解の蓄積が必要である。
そのために「体験」を多く積もう。

わたしの考える「体験」とは、本から学んだり、実際に行動に起こして経験したりすることを指します。

これらは、体験→理解→共感というプロセスによって、社会はきっと豊かになっていくという個人的な考えに基づいています。

それでは、他の人たち(過去の哲学者たちを含む)は、学ぶことや経験することの意義をどのように捉えているのか、また、それによってどのような影響が生まれてくると捉えているのかを深堀りしていきたいと思います。

(今回も若干専門用語多めですが、分かりにくそうな概念は、なるべく平易な日本語を意識して丁寧に説明を加えているつもりです。)

東洋哲学における「学び」の意義

東洋哲学の重要な基礎とされる、孔子と弟子たちの問答集『論語』では、冒頭に「学び」の大切さから始まります。

学びて之を時習(じしゅう)す、亦た説(よろこ)ばしからず乎(や)

意訳:良き教えを学び、それをいつも実践することこそ喜びだ。

過去の教えを学んで、それを繰り返し実践することは、それ自体が楽しいよね、と素敵なフレーズから始まります。

また、『論語』を後世で発展させた『弟子規』の中では、学びと実践の繰り返しの中で、その人に「仁徳」が培われると説いています。

この「仁徳」という言葉は、人を愛する心で、究極的には「自分=他者」と捉えることができる愛であるとしています。

このように、『論語』に始まり、東洋哲学の根底には、他者を自分と同一化できるほどに共感できる人間として豊かな情緒を得て成長するために、学習して知識を得て、それを繰り返し実践することの重要性を説いています。

西洋哲学における「学び」の意義

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「幸福(εὐδαιμονία)」という概念を提唱し、それは「豊かに生きる」ことで生じる人類にとっての最終的な副産物であると説きました。

この「幸福(εὐδαιμονία)」は、個人の主観的なものも、他者の客観的なものも両方含んだ概念で、人類全体に渡る持続的な幸福状態のことを指します。

そして、そのための手段としての「豊かに生きる」ことを、アリストテレスは「最高善(τὸἄριστον)」と表現し、「学びを得る作業」と「思いやりを持つ作業」がそれにあたるとしました。

少しわかりやすくするために、わたしなりに簡単にまとめます。

<アリストテレスの幸福理論>
個々人が学びや経験を通して、知識と道徳を持ち、それらを発揮して社会で行動することで、人類にとっての真の幸福が実現する

とアリストテレスは説いていると、わたしは解釈しています。
(人によって解釈は様々です)

このように、中国の孔子に始まる東洋哲学と同様、アリストテレスも学ぶことの社会全体にもたらす意義に着目しています。

現代における「理解」の意義

ちょっと昔話の前置きが長くなってしまいましたが、ここから「理解」について、最近感銘を受けた事例を紹介したいと思います。

まずは、北朝鮮から亡命して、現在アメリカに住んでいる女性Yeonmi Park氏の演説です。

演説の中で、語られた一言にハッとさせられました。

私はよく「なぜ70年もの圧政に革命が起きないのか」と
問われますが、その度に逆に問いかけます。

「国際社会から孤立していることも、自分たちが抑圧されていることも知らない国民が、自由のために闘おうと奮起できると思いますか?」と。

私は当時、自分が世界の中心にいると信じて止まなかったのです。

わたしは、この動画を観るまでは、「なぜ国民は抵抗しないのだろうか」という同じ疑問を持っていました。

しかし、それはわたしの学びが不足していたことによる理解不足だったということを痛感しました。

しかし、実情を学び、理解を蓄積させ、想像力を得ることで、初めて「共感」の二文字が脳裏をよぎりました。

わたしのように、理解が不足していると、その立場にいる人々のことを想像できず、無自覚に理解ができないものだと遠ざけてしまい、時には批判に転化してしまうこともあります。

わたし自身を振り返ると、ADHD発症当初は、その症状から当時もの忘れがとてつもなくひどく、一部の上司からは異常に罵倒された経験があります。

しかし、わたしはそれでもADHDであることを明かしませんでした。

それは、明かしたところで、もの忘れがなくなるわけではないし、今まで罵倒してしまった上司に申し訳なさや同情を抱いて欲しくなかったという理由からです。
あとは、言い訳にしたくなかったという妙なプライドもありました。

したがって、上司は悪くないのです。
理解のための学びのきっかけをわたしが明かさなかったため、わたしの立場に立つことは不可能なので、怒りを覚えるのも無理はないと当時考えていました。

しかし、このわたしの体験例のように、世の中には理解ができないがために、ある差異や異変に対して、批判という形に転化してしまうケースも多々あります。

人を怒ったり批判したりするのはとても簡単です。

他との差異や異変を「間違い」だと解釈(=誤解)して、その個人の「態度」に起因する問題であると片付ける方がシンプルで手っ取り早いからです。

わたしは自分自身がそうであったため、周囲の人のなにか異変を感じた場合には、絶対に批判したり否定しません。その個人をじっくり観察して、何かそうなった原因があるはずだと一呼吸置くようにしています。

したがって、わたし個人としては、他者への共感ができない場合には、自分の理解の不足が原因なのではないかと自問できる世の中になって欲しいと常々思っています。

現代における「共感」の意義

これは1週間前くらいなのですが、わたしはある著書をAmazonで見つけました。

それは、新井和宏さんの書かれた『共感資本主義を生きる』です。

本書の中では、新井さんが実施された社会実験をもとに対談形式で新井さんの想いが綴られています。


まず、新井さんの行った実証実験をざっくりと紹介すると、

「共感」を尺度とする新しいコミュニティ通貨eumo(ë)を導入し、お金が目的化しないように「人が幸せになるための手段」としてお金を再定義することを実際に実証してみる

という実験です。


実際に、2020年2月29日までの実証実験で、日本全国20箇所以上の「共感加盟店」で使うことができる通貨として機能しました。

また、新井さんは自身のnoteで、この実証実験の想いについて次のように語られています。

私たちは高度に発達した資本主義社会で「効率が良い」ことを目指して生きてきました。

その結果、面倒な人間関係はどんどん失われました。
だから、面倒さを復活させる。
つまり人間らしさを取り戻そうと思うのです。

その面倒な部分、言うならば余白部分に共感でつながる隙間が生まれるはずです。

まとめ

今回は古典に始まり現代の「理解」と「共感」にまつわる事例を挙げさせていただきましたが、わたしが今回のテーマで軸にしたかったことは、体験→理解→共感の重要性です。

数学では最短の道を「始点と終点を結んだ直線」と定義しますが、人生における最短の道は、いかに無駄だと思えることでもより多くの体験を通じて、あらゆる物事を理解できる素地を整えておくことで、幅広い共感を持つことであると考えます。

「紆余曲折」という言葉がありますが、人生は紆余曲折の方が、他者に共感できる幅やゆとりができ、急なことにも対応できる臨機応変を養うことができ、様々な考え方に対する思考の柔軟性を持つことができるため、「直線」よりも逆に、人として豊かになれる最短の道なのではないかと考えたりします。

たしかに、すぐに役立つ即効性のある受験勉強も大事な作業かもしれません。
しかしながら、すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなります

これは、慶應義塾大学の塾長も務めたこともある経済学者の小泉信三氏の『読書論』(1950年)にも記された言葉です。

われわれが合理的かつ効率性を求めた結果が、今の資本主義経済に現れていると思いますが、わたしはある種その危険な側面を危惧することも多々あります。

文明が急速に発達して利便性を追求した結果ある意味"豊か"になった側面もありますが、とはいえ、わたしは、人間として豊かな人というのは、あらゆる物事を理解できて想像力を発揮し、他者に対して共感ができる人のことを指すと考えています。

そのような価値観が意義あるものだと一般的に捉えられる社会となることを切に願うとともに、他者との完全なる相互理解には限界があるという前提を是認した上で、他者との共感の輪を広げていき、豊かな社会の実現のために共存していこうとする積極的な姿勢こそが、人類が持つべき大切な視点なのかなと考えたりします。

いくつか綺麗事に聞こえる部分もあったかもしれませんが、全てわたしが心から本気で思っていることなので、共感が連鎖することが価値の主軸になる社会実現のために、自分のできることを率先垂範して、微力ながらもコツコツと発信していく小さな媒体となりたいと思っています。

いずれ賛同してくれる人々の方がマジョリティになることを信じて。

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