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13 外人さんが来た話

私の住む奄美大島・小湊集落に伝わる話がある。妻の遠縁に好蔵(こうぞう)オジィと言う人がいた。故人だがもし存命だったなら100歳くらいだろうか。好蔵オジィが子供の頃、ひい爺さんから聞いた話だ。
 
ある日、小湊沖に3〜4隻の海賊船のようなものが見えた。小湊集落には古来、海賊に襲われた歴史がある。海賊船は村人から「赤立神(ハータンガミ)」と呼ばれる大岩の沖に停泊し、そこから小舟で近づいた数人の外国人が上陸した。村人に漢文で「水を汲みに来た」と書かれた紙を見せたので、ひい爺さんが若い衆に水を汲みに行かせると、お礼だと言って牛の脂とパンをくれたのだと言う。牛の脂というのはバターの事だと思う、と好蔵オジィは解説した。
 
海賊船とは1854年、2度目の日本来航を果たしたアメリカの東インド艦隊、つまりペリー艦隊であった。その年の3月31日、横浜で日米和親条約を締結し、6月17日に伊豆下田で下田条約を締結した艦隊が下田を出港したのは6月25日の事である。琉球へと向かう途次である6月29日の朝、奄美大島の東岸を詳しく調査する目的で艦隊は島へ接近、停泊した。それが住民から「赤立神」と呼ばれる大岩の沖であった。ペリーはミシシッピ号からモーリー大尉とウェッブ大尉に託して二艘のボートを派遣し、「艦隊の横約2海里隔たった大島の小湾を訪問させた(M・C・ペリー,F・L・ホークス. ペリー提督日本遠征記 下より)」小湊集落のことだ。以下、引用する。
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両士官が上陸すると、そこには小さな集落があるだけで、粗末な衣服をまとった現地人の一団が、こん棒や石や一挺の旧式の火縄銃で武装して、海岸で待ち受けていた。しかし、住民たちは好戦的ないでたちにもかかわらず非常に丁重で、パンや豚肉と交換に鶏を数羽と野菜をくれた。植物の標本もいくつか採取したが、時間がなく、もっと重要なことに余分な石炭がなかったので、踏査を長びかせることはできなかった。キリスト教徒が大島に上陸したのはおそらくこれが最初であろう。
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驚きはペリーが来たという内容では無く、この話の身近さにある。小学校の社会科で習ったペリーの話が、身内の話としてすぐそばに存在するという事だ。オジイがそのまたオジイから話を聞いたなら、それはもう幕末の話である。多くの人が100歳近くまで元気で過ごす長寿の島では、このような事がままある。

*今週の参考図書
・『ペリー提督日本遠征記 下』M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (著), 宮崎 壽子 (その他) 2014年/KADOKAWA

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