読者のかたからのご論評におこたえする⑤——「ぬるま湯」の世の中こそ目指すべきだ

2月12日の投稿から、拙著の、ある読者のかたからいただいたご論評におこたえしています。
詳しい経緯は2月12日の最初の投稿をご覧ください。近況や、最近公開した仕事の紹介もしていますので、未読のかたは、ぜひお目通しください。

おこたえするご疑問全体は、次のとおりです。おこたえをすでに投稿ずみのものにはリンクをつけていますので、ご関心にあわせて確認してください。


・低金利の期限なき継続は弊害を生む。この間の円安から極端な物価上昇の推移を見ればわかる。国際的な金利の格差(日米の差)は一層の円安に拍車をかけ、輸入物価上昇で人々に負担をかけた。
・低金利は設備投資を増加させなかった。



・国債の借り換えは帳消しにすることではない。それに、国債はいくら借り換えても、趨勢としては債務が増え続けることに変わりはないはず。
・国債の日銀保有が半分以上になることの異常さは問題。国債市場の市場効果を歪める。
・松尾氏等は、利払いをほとんど無視されるが「国債費」(利払い)は相当な金額になっていることも批判せざるを得ない。



「経済が成熟した先進国では設備投資のために借金する動きは停滞してしまう。世の中に貨幣が出なくなる。それでは困るので、貨幣を出回らせるためには、政府が借金するか消費者が借金するかしかない」とされるが、こういう論法では、国に限らず、借金まみれを奨励するようになってしまう。


好況時の過熱化と不況時の総需要の落ち込みの加速をコントロールするのは政府・中央銀行だとして、そういう役割を計画的(正確な予見)に行えるのか。景気加熱時やインフレ対応については概して楽観的な見方が支配的で、デフレマインド対応に偏重し過ぎていると思える。



松尾氏が「そういう技術革新というのは『成長戦略』で人為的に引き起こせる類いのものではない」とアッサリと片付けられるのは、問題だ。今後の展望を天に任せるのは良くない。公的プロジェクトとして基礎研究の次の段階レベルに方向性を示すくらいの積極性が必要ではないか。


反緊縮の経済学の考え方は、経済学そのものが根底から立て直さなければ議論できない大転換であり、世界の趨勢はそこまではいっていないのではないか。

今回は、上記の⑤におこたえします。

ごく普通の庶民が誠実に働くだけでまっとうな暮らしができる世の中こそ目指すべきだ

ご論評

松尾氏が「そういう技術革新というのは『成長戦略』で人為的に引き起こせる類いのものではない」とアッサリと片付けられるのは、問題だ。今後の展望を天に任せるのは良くない。公的プロジェクトとして基礎研究の次の段階レベルに方向性を示すくらいの積極性が必要ではないか。

おこたえ

人々のリスクの見通しに隔たりのある事業は公的に合意できない

民意に基づく民主的合意というとき、人々のニーズに基づき、医療サービスがどれだけぐらいとか、防災インフラがどれだけぐらいとかの大雑把な合意をつけることは、たとえ各自のニーズが多様に異なっていてもできるでしょう。できなくても、最終的に社会の階級的多数派の利害を通すことも理にかなっているでしょう。
マクロなレベルでの経済の民主的コントロールは、このような事柄については可能だと思います。
しかし、人々のあいだでリスクの見通しに隔たりがある場合、その合意は原理的につけられません。真の合意がないまま公的に決定すると、推進者の側は、失敗してももともと国の損で自腹で責任をとることがないだけでなく、失敗したときに責任が反対者にも共有されて薄まってしまいます。
それがあらかじめわかっていますから、リスクのある決定に歯止めがなくなってしまいます

例えば基礎研究のように、明確な実用的効果がわからなくて当然と、みんなが納得した上で公的資源配分を決める性質のものならば、文学や歴史の研究のための公的資源配分の決定同様であって、事前の精査の必要もなく、民主的合意は比較的につくでしょう。
しかし、そこまで思い切るレベルのものではなく、何か、人々のニーズからはずれたり、あまつさえそれを損なったりするリスクのある具体的な技術や新製品の開発のために、資源配分をかけることを公的に判断することは、ひとつひとつの事業の具体的中身に立ち入って、行政担当者の裁量的判断に依存せざるを得ません。そうなれば手心を求める癒着は必然的に起こってくるし、担当者は結果に自腹で責任を負いませんのでリスク過剰な決定がなされてしまいます。
だからこのようなことは公の役割からははずし、リスクを自らかぶる意思を持った人に判断を任せ、その失敗の皺寄せが判断に関与していない人に及ばないように、何かあったら自腹ですべて責任をとるようにするべきなのです。

供給サイドの成長策は新自由主義側の政策というのが世界の常識

ところで、もっと懸念されるのは、「技術革新」などを政策的に求める論調が新自由主義の側の経済政策論を後押しする危険です。

マクロ経済政策には需要サイドと供給サイドの二種類がある
マクロ経済政策には二種類あります。一つは、国全体の生産能力を高めようという供給サイドの政策。もう一つは、その与えられた供給能力がちょうどいい具合に使われるように景気をコントロールしようという需要サイドの政策です。後者の場合特に重視されるのは、失業者がでないように雇用を増やすことです。

労働者側の左派政策は需要サイドの拡大策
欧米では伝統的に、雇用を重視する労働組合の支援を受けた左派が、後者の、需要サイドの経済政策を提唱してきました。左派のサイドでも一時、90年代ぐらいから、イギリスのブレア労働党政権に代表される「第三の道」などと称する、新自由主義者と違いがなくなった勢力が、いわゆる「ワークフェア」など、供給サイドに偏った政策を展開してきましたが、近年そのことが批判され、イギリスのコービン派やアメリカのサンダース派などはまた総需要拡大政策を語るようになっています。

新自由主義は供給サイドの成長策
それに対して、供給サイドの経済政策を主張してきたのが新自由主義でした。失業が生まれるのは規制や労働組合のせいで賃金が下がらないためであって、賃金が市場の働きにしたがってスムーズに下がれば失業はなくなり、国全体の生産能力は適切に活用されるようになる。よって、総需要拡大政策の必要はなく、政府は生産能力が高まるような政策をとるべきである。このように言って、規制緩和や民営化を進めてきたわけです。
国は需要サイドの政策からは手を引くべきだとして、財政削減と金融引き締めを断行することで総需要を停滞させて、たくさんの失業者を出して労働者を大人しくさせ、賃金を押さえ込みました。
そして、財政支出は漫然と総需要全体の拡大のために使うのではなくて、生産性を高める目的に集中して出せと言います。

新自由主義と同じく需要側政策を嫌い供給側強化策に親和的な日本の左派・リベラルに見られる潮流

需要拡大政策を経済成長主義呼ばわりする日本の左派に見られる傾向
これまでよく私は、日本の左派が世界の左派の潮流とは逆に、総需要拡大政策に背を向けがちだったことを嘆いてきました。
国全体の与えられた生産能力の中で雇用を増やすための景気拡大策(=総需要拡大政策)と、国全体の生産能力自体を拡大させる成長政策とを混同する脱成長論者から、総需要拡大策を唱える私は、しばしば経済成長主義者呼ばわりされて批判されてきました。

最初私は、これは、単なる経済理論に対する無理解のせいだと思っていました。
しかしだんだんそういうレベルのことではないことに気づいてきました。

脱成長論を唱えながら供給能力の成長策に親和的
私は、これまで述べたとおり、日本が人口減少で長期的に生産設備を拡大できなくなり、設備投資が停滞するようになった現実を受け入れて、その場合にも世の中に十分な購買力が出回って、雇用や自営業者の生業が維持できるようにということで持論を提唱しているわけです。だから、供給サイドという意味では、経済成長主義とは真逆の立場なのです。
ところが、これを説明すれば、脱成長論的リベラルの誤解が解けて理解されるようになると思いきや、そうではなかったのです!

脱成長論的なリベラルは、私が供給サイドについては日本の生産能力が拡大しないことを受け入れていることも、かえって気に入らないようなのです。むしろ、脱成長論へのシンパシーがあるくせに、供給サイドの生産能力の成長を求める議論にはかえって親和的だったりするのです。

新自由主義側政府ブレーンと同じことを言うリベラル・左派の論調
曰く、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた日本の企業は、今や凋落して稼ぐ力を失い、海外の企業に負けてしまっている。旧来型産業からの構造転換ができないでいる。イノベーションしないで生産性が上がらず、ゾンビ企業になっている。ガーファのような企業が生み出される国を目指せ。漫然と総需要一般の拡大のために財政を費やしてはいけない…等々、これらの、供給サイドの能力拡大を主張する言説は、典型的な新自由主義者の主張で、政府ブレーンになっている新自由主義側の経済学者が口をそろえて主張していることですが、全く同じことをリベラル側の論客が口にして、リベラルや左派の側の人々の間に共有されているという空恐ろしい現実があるようなのです。
もちろん、その結果進められることは、中小企業や個人事業の淘汰、労働者間の技能・資格取得競争、リストラ、国際競争への駆り立て等々、新自由主義のいっそうの推進です。

日本の左派における儒教倫理的ストイシズムの影響のやばさ

ご論評では、左派に反緊縮主義が広がらないことについての、儒教倫理的ストイシズムの影響があるかもしれないという私たちの感想について、「ある意味で隠れた真実のような気がしますから、留意すべきことだとは思います」とおっしゃっています。
儒教倫理的なストイシズムやガンバリズム、お金は汚いという感覚などが根底にあって、そこから反資本主義的な心情を持った人たちが左派になっているという現実が日本にあったとしたら、問題は根深いことになります。小泉改革や橋下フィーバーを支えて新自由主義改革を推進させた大衆の心情も、決して自分がこの流れに乗じて利己的に大もうけしてやろうという邪な動機なのではなく、同様の儒教倫理的心情だったと思われるからです。どちらがこの倫理にかなっているかで競うかぎり、結局新自由主義は推進されます。
反緊縮を受け入れないぐらいならともかく、供給サイドの生産性論でも新自由主義同様の議論がリベラルや左派の側に受け入れられている現実を見ると、本当にそんな気がしてきます。
もっとやばいのは、新自由主義の犠牲になり続け、もうこれ以上ガンバるのも切り詰めるのもうんざりになっている数多くの庶民が、儒教的ストイシズムを振り回すウザい存在が「サヨク」だと感じて、それへの反発から極右に走ることです。

普通の庶民がまじめに生きていて報われる世の中が「ぬるま湯」なら「ぬるま湯」のどこが悪い

卓越した技能も、不屈の根性も、斬新なアイデア力もないごく普通の庶民が、ただ誠実に働くだけで、誰もが簡単に雇用や生業を得て、まっとうな所得で安心できる人生をおくることができる、そんな世の中は、技能取得やイノベーションに誰もが無理やり駆り立てられる世の中とは対極にあります。

ギリギリ経営を維持している零細店でも低金利で資金が借りられる状態。普通にお天道様に恥じない仕事をしてきた人たちが誰でも安心してその仕事を続けられるような景気を作る財政支出状態。まじめに商売をしてきた人たちが、海外競合品に脅かされず、納入先が突然海外に出ていかないような適度な円安状態。それが「ぬるま湯」と言うなら、「ぬるま湯上等」です。世界中でぬるま湯になれば文句は言えまい。左派たるものそれを批判的に見てはなりません。

好景気が持続して人手不足が常態化したならば、労働生産性を上昇させる技術進歩は自然に興ってきます。不況で倒産したり、失敗したら路頭に迷ったりする心配をしなくてもすむ景気状態が維持されてこそ、闊達な新規事業やイノベーションがおのずと湧き興ってきます。そうなってこそそれらはそれぞれ、変わらぬ長年の仕事でご近所の信頼を得ることと優劣ない、自由な個性の発揮です。「お上」が音頭をとって、お金と権力で押し付けるべきものではありません。