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【短編】ツチノコ・ライ・ライ・ライスボール

 明里が、隣町の山にはツチノコがいる、とあからさまな嘘を言い出したのは、ジュニア・テニス・スクールのレッスンを終え、いつもの三人で買い食いしながら帰っているときだった。
「熱でもあんのか」
「光也には言ってない」彼女は冷ややかに俺を睨む。
「ツチノコって?」
 冬樹がきょとんと訊ねると、待ってましたとばかりに明里が得意気に説明した。
「ツチノコっていうのは未確認生物の一種。ヘビが太くなったような形をしているって言われてて、幻の生物として昔から有名なの」
「へぇ、そんな生物が……」
「聞かなくていいって。嘘なんだから」俺は呆れて冬樹を小突いた。
 テストの成績は断然良いくせに、冬樹は妙なところで抜けている。顔立ちも良いから余計に残念な印象だ。
「嘘じゃない」明里がムキになった。「うちの兄貴が見たって言ってたもん」
「じゃあ、お前の兄貴が嘘つきだ。で、お前はただの馬鹿だ」
 明里がラケットバッグで殴ってきたので、俺もすかさずやり返した。女子のくせに背が高いので一撃一撃が重い。
 熾烈なしばき合いを繰り広げる俺たちの脇で、冬樹が目を輝かせた。
「明後日の木曜、ツチノコ捕まえに行こう」
 冬樹が言うと、明里は嬉しさを噛み締めるように頷いた。その表情を見て、あ、そういうことね、と俺もようやく察したのだった。

 木曜日の朝、自転車を漕いで集合場所の公園に向かうと、すでに明里と冬樹が待っていた。明里は長ズボンとTシャツにナップサック。冬樹はクソ暑いのに長ジャージを上下に着ている。軍手を両手にはめ、虫取り網まで携えた完全武装だった。
 俺が現れると、明里があからさまに嫌な顔をした。
「なんで光也までついてくんの?」
「誘われたんだよ」俺は冬樹を指す。
「あんたらっていつも二人でいるよね。ホモなの?」
「光也は面白いからね」冬樹が屈託なく笑う。虫取り網を斜めに構え、彼も自転車に跨った。「さぁ、ツチノコ捕まえに行こう」
 三人で自転車を漕ぎ、幹線道路に沿って隣町へ向かった。目的地は四年生の遠足でも訪れたことのある小山で、アスレチック場も備えているメジャースポットだ。夏休みだから、きっと人も多いことだろう。
 道中、来年のこと、つまり中学へ進学したあとのことを語り合った。
「光也はテニス、続けるの?」冬樹が尋ねた。
「あったりまえじゃん。ウィンブルドン目指してんだぜ、俺」
「あたしにも勝てないくせになに言ってんの」明里が憎たらしく言って、冬樹に振り向いた。「冬樹は、やっぱりテニスやめちゃうの?」
「中学から塾に行くからね」
「いまでも充分、頭良いのに」
「将来弁護士になりたいから、いまのうちから勉強しなきゃいけない。高校と大学は東京の学校に行くつもりなんだ」
「すごいね」と明里が感心する。「どっかの馬鹿と違って、ちゃんとした夢持ってる」
「明里は中学に上がったらどうする?」冬樹が訊き返す。「テニス、続けるの?」
 明里が前方の夏の空を見上げる。遠くの方で、雲がお城のように立ち昇っていた。
「どうしようかな、あたし……」
「明里は上手いから続ければいいと思うよ」冬樹は微笑んだ。
「ふ、冬樹の方が上手いじゃん」彼女はうっすらと赤くなる。「嫌味だよ、それ」
「続けろよ、明里」俺はここぞとばかりに口を挿んだ。「お前、せっかくゴリラみたいなパワーショット打てるんだからさ、もったいねぇよ」
 明里が片脚を伸ばし、無言で俺の自転車のかごを蹴った。それを見て、冬樹が呑気に笑っていた。

 小山に着くと、道路沿いの駐輪場に自転車を停め、虫よけスプレーを振りまいてからハイキングコースへ踏み込んだ。日差しは相変わらず厳しいが、木陰に入ると少しだけ涼しい。蝉の声がやかましいくらいに降っていた。
 先頭を行く冬樹はうずうずした足取りだった。
「ツチノコ、見つかるといいなぁ」
「見つかるわけねぇだろ。いまどきツチノコ信じるやつなんてお前くらいだ」
「でも、明里の兄貴が見たっていうし」冬樹が明里を見る。「だよね?」
「うん」彼女は白々しくうなずき、横を向いた。「信じないなら一人で帰ればいいじゃん、光也」
 俺も面白くない気持ちでそっぽを向く。「ツチノコって咬むのかな」と冬樹だけが見当はずれの心配をしていた。
 途中でハイキングコースから逸れ、木立の隙間や草むらを探ってみた。町中にある小さな山なので遭難の心配はない。ツチノコに咬まれる心配も端からしていない。うっかり蜂の巣を刺激してしまわないかだけが不安だった。
 成果がないまま、あっという間にお昼になった。斜面を登っていくうち、俺たちはいつの間にかアスレチック場にまで出ていた。予想していた通り、人がたくさんいて、辺りはきゃあきゃあと騒がしい雰囲気だ。広場の外れでは、ビニールシートを広げて弁当を食べている親子もいる。
 俺はひどい空腹を覚えていたが、どうやら冬樹はエンジンがかかってしまったらしく、一心不乱に草の根をかき分けていた。「休憩しようぜ」と俺が言っても、まるで聞く耳を持たない。冬樹は一度熱中したらとことんまでやってしまう性格なのだ。
 最初は無駄口の多かった明里も、いつしか黙り込んでいた。予想以上にツチノコ捜索が過酷で、しかも冬樹のペースに合わせていたから疲れたのだろう。ゴールのないマラソンをやらされているようなものだ。
「お前のせいだからな」俺は声を潜めて恨み言を吐いた。「冬樹、ああなると長いぞ」
「うるさい」彼女は普段の威勢をなくした声で言い返した。
 アスレチック場の隅を歩きながら、俺が「腹へった、腹へった」とリズムをつけて歌っていると、堪りかねたように明里が振り向いた。てっきりしばかれるのかと思って身構えたが、彼女は背中のナップサックからタッパーを取り出しただけだった。
「ほら、これ」
「え?」
「おにぎり」明里はぶっきらぼうに言う。「朝、作ったの」
 大きなおにぎりが三つ入っている。俺はあっけにとられて彼女を見た。
「でも、お前の分だろ?」
「ちゃんと三人分作ってる。一人一個ずつ」
 俺はおずおずとタッパーを受け取った。保冷剤のおかげで表面は少し冷たかった。
「お前は、食わんの?」
「あたしはいい」
「冬樹、当分休憩しないと思うぞ」
 言ってから、不用意な発言だったとすぐ気づいた。案の定、明里が「はぁ!?」と盛大に取り乱す。
「冬樹関係ないし! お腹すいてないだけだし!」
 言ったそばから、明里の腹の虫が大きく鳴った。彼女は真っ赤になって絶句する。
 いっそ爆笑してやりたかったが、俺はいたたまれなくなって声をかけた。もちろん、いつもの喧嘩腰の口調ではない。
「休憩しようぜ? 冬樹、止まんねぇしさ」
 冬樹の姿はもう見えなかった。林の奥に行ってしまったのだろう。
 明里はしばらく唇を噛んで黙っていたが、やがて居直ったようにつかつか歩き出し、丸太のベンチに腰掛けた。俺がタッパーを差し出すと、おにぎりをひとつ取ってパクついた。それを見届けてから、俺もベンチに座って食べた。具にミートボールが入っていて、めちゃくちゃ美味かった。
「なんで隣に座る」明里がムッとする。
「しかたねぇだろ、スペースねぇんだから」
「地べたに座れば」
「お前が座れ」
 おにぎりを平らげると、彼女は水筒のお茶を飲んだ。俺がせがむと「絶対口つけんなよ」と警告してから渡してくれた。「誰がつけるか」と俺は啖呵を切り、インド式のやり方で飲んでやった。
 そうしているうち、ジャージを草だらけにした冬樹が戻ってきた。
「なにやってんだよ、二人とも」苛立っているようだった。「ツチノコ探せよ」
「ちょっと休憩してただけだって」
 やべ、と思いながら俺は腰を上げる。冬樹の目がマジだったからだ。こういうときの彼は刺激しないほうがいいことを、俺は経験から知っていた。
「あ、ねぇ、冬樹」明里が遠慮がちに呼ぶ。「おにぎり、あるんだけど……」
 しかし、冬樹はまたも一意専心モードに入って、すでにべつの草むらへ踏み込んでいくところだった。明里が少し落ち込んだ様子でタッパーを仕舞う。なにか言ってやりたかったが、上手い言葉が思いつかず、俺も小走りで冬樹のあとを追いかけた。

 結局、ツチノコ捜索は夕方までかかった。言うまでもないが、成果はゼロ。冬樹は途中から完全に沈黙し、下山して自転車に跨ってからも、虚空を睨みつけているばかりで口を利こうとしなかった。ツチノコを見つけられなかったのが、相当悔しかったのだろう。幼稚園からの仲だが、未だにこいつのスイッチがどこにあるのか俺にはわからない。
 明里もほとんど喋らず、俺も疲れて口を開く気になれなかった。最初のうちは気まずさからひと言ふた言冗談を放ってみたが、クッションにボールを投げつけるように手応えがなく、途中ですっかり諦めてしまった。
 冬樹は、最後までおにぎりを食べなかった。それで明里がへこんでいるのが俺にはわかる。犬でもそれくらいの空気は読めるだろう。
「なぁ、明里」帰り道、俺は自転車を寄せて囁いた。「おにぎりの残り、よこせよ」
「は?」彼女は目を丸くする。「なんで?」
「俺が、冬樹に渡しといてやるからさ」
 茶化したわけではなく、本当に親切心から言ったのだが、またしても不用意な発言だったことを自覚した。
 明里がキッと目を吊り上げ、こちらの前輪を蹴りつける。力の加減を知らない蹴りで、俺はバランスを崩してアスファルトへ転倒してしまった。
 心ここにあらずの様子で先頭を走っていた冬樹だったが、さすがにその派手な音には振り向いた。ぎょっとして自転車を停める。
「大丈夫か、光也!」
「い、いてぇっす……」俺はからから回る車輪を呆けて眺めてから、明里をぐいっと睨み上げた。「なにすんだ、ブス!」
 明里も自転車を停めてうろたえていたが、俺が吠えると立ち漕ぎして逃げていった。冬樹は遠ざかる彼女をぽかんと見送った。
「明里、どうしたの?」
「知らねぇよ」俺はよろよろと自転車を起こす。「ツチノコ見つからなくて、イラついてんだろ」
「あ、そうか」冬樹は納得して、明里が去ったほうをまた眺める。「悔しいのは、僕だけじゃないんだね……」
 お前だけだよ、と俺は心の中で言った。

 土曜のテニス・スクールの日、冬樹は用事があるとかでレッスンを休んだ。とても珍しいことである。熱が出てもレッスンには欠かさず参加するようなやつだからだ。ツチノコの件が脳裏をよぎったが、「まさかね」と俺は独りで苦笑した。
 あれから二日経っていたが、後味悪く終わったツチノコ捜索がなかなか頭から離れなくて参った。明里には腹が立つし、冬樹の入れ込みぶりは心配の種で、ラケットの素振りにも身が入らない。なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだろう。ツチノコ伝説を創った大昔の嘘つきに、思いきりサーブをぶち当てたい気分だった。
 レッスンの最中、明里と目が合い、いつもの調子で声をかけてみたが、彼女は露骨に俺を無視した。かっと頭にきて、俺もシカトすることに決めた。しかし、無視すればするほど彼女の態度にムカッ腹が立ってくる。逆ならまだしも、俺が無視されるとはどういうことか。こっちは擦り傷まで負わされているというのに、謝りもしないのか、お前は。
 レッスンが終わると、俺はさっさと着替えを済ませて更衣室を出た。明里と顔を合わせないうちに帰ってしまおうと思ったのだ。
 外履きの靴に履き替えていると、腹の虫が鳴り、それでふとアスレチック場での明里とのやり取りを思い出した。あのときは、むしろこちらが気を遣っていたくらいなのに、いまはただただ腹が立つ。だいたい、公園に集合したときからあいつは俺を邪険にしていた。「なんでお前まで来るんだよ」的なことを言っていて……。
 ――ん?
 ふいに気づく。
 そういえば、なんでおにぎり、三人分あったんだ?
 あいつは冬樹と二人きりになりたかったわけで、俺のことなんかお邪魔虫くらいにしか思っていないはずなのに。
 俺は脚を止め、しばらくその疑問の空白を漂った。
 そのとき、正門脇の植え込みの向こうから、言い争うような声が聞こえてきた。聞くともなしに聞いていると、女子の声だとわかった。
「あんた、冬樹くんに嘘吹き込んだでしょ」
「吹き込んでない」
 明里の声だ。俺はどきっとして、腰を屈めて植え込みに近づく。声がますますクリアに聞こえた。
「嘘つくな」とべつの女子の声がした。「ツチノコがいるとか言って、冬樹くんと一緒に山に行ったんでしょ。本人から聞いたんだから。ツチノコ探すから遊べないって」
「やり方がヒレツだよねー」
「冬樹くんは、あんただけのものじゃないんだから」
 明里を囲っているのは、同じ学年の、いつも冬樹をちやほやしている連中だった。リーダー格の女子が特に冬樹に熱を上げていて、学校だけじゃ飽き足らず、テニス・スクールにまで通い出した筋金入りの追っかけだ。まぁ、純情といえば純情かもしれない。明里と比べて正攻法で勝負しているともいえる。
 参ったな、と俺は思った。めちゃくちゃ修羅場じゃん。かなりまずい状況だ。しかし、その場から離れる気がどうしても起こらなかった。かといって、女子同士の問題に首を突っ込むのも気が引ける。
「冬樹くん騙して心痛まないの?」リーダーの女子が言う。「そこまでしてモノにしたいわけ?」
 そうそう、と取り巻きたちが同意する。
「学校始まったらみんなに言いふらしてやるからね。冬樹くんにも言ってやるから。そしたらあんた、もう誰も味方いないからね」
「嘘じゃない」明里は弱々しく言い返す。「兄貴が言ってたから、教えてあげただけ」
「言い訳すんな」と取り巻きのひとりが凄んだ。
 見えなかったものの、誰かが明里をどついたのがわかった。俺は緊張して耳を澄ましたが、明里が反撃する気配はなかった。なにやってんだよ、と思う。俺が相手ならソッコーやり返すくせに。
「謝るまで帰さないからね」リーダーが言う。「嘘つきました、ごめんなさいって言え」
 明里は黙り込んでいる。言えよ、とほかの女子がまた凄んだ。俺もどきどきして待ったが、植え込みの向こうの空気は真空パックのように張り詰めて動かなかった。
 あー、もう。
 しかたねぇな……。
 深呼吸をひとつ挿んで、俺は植え込みの陰から立ち上がった。昔観ていた特撮ヒーローの登場シーンを一瞬だけ思い出す。いま思えば、かなりダサくて幼稚な番組だ。それと同じようなことをしている自分が、同じくらいダサくて幼稚に思えた。
「明里は嘘ついてねぇよ」
 突然植え込みから現れた俺に、全員が驚いて仰け反った。明里が一番びっくりしているようだった。
「はぁ?」リーダーが声を荒げる。「いきなり出てきて、庇ってんじゃねーよ、光也。ツチノコなんているわけないし。てか、なに盗み聞きしてんだよ」
「俺ら、ツチノコ見つけたぜ。逃げられたけどな。冬樹がなかなか諦めなくて困ったんだよ」俺は植え込みを乗り越え、明里の隣に着地した。緊張で膝が震えそうだった。「な? そうだろ、明里」
 明里はまだ言葉を失くして突っ立っている。女子たちは少し動揺しているようだった。
「なにそれ? 光也、明里のこと好きなの?」
「俺が好きなのは冬樹だ。俺、ホモだから」
「い、意味わかんないんだけど。キモ!」
「俺ら、またあの山に行って、今度こそツチノコ捕まえる」にやにや笑ってみせた。「言いふらしたいなら言いふらせよ。あとで吠え面かくのはそっちだからな。ワンワン!」
 俺が歯を剥いて吠え真似すると、女子たちはみんな白けた顔をして離れていった。おかしいな。なんだろう、この敗北感。嫌な連中がいなくなると、俺と明里だけが残されて、だいぶ気まずい空気が流れた。
 しばらく会話を切り出せず、どちらも植え込みにもたれかかって黙っていた。カラスが鳴きながら低い空を飛んでいく。それをなんとなく見上げたとき、額にびっしょり汗をかいていることに気づいた。ダセェ。必死じゃん、俺。学校が始まったあとのことを考えて、さらに気が滅入った。今日の一件は間違いなく言いふらされるだろう。
 うつむいている明里が、顔を伏せたまま口を利いた。
「なんであんなこと言ったの? ツチノコ見つけたとか」
「べつに、理由なんかねぇよ。あいつらムカつくから、勢いで言っただけ」俺は溜息をつき、さりげなく額を拭う。「それに、ツチノコがいるのは嘘じゃねぇんだろ?」
「嘘に決まってるじゃん」明里は顔を上げない。前髪が蔭になって表情が見えなかった。「兄貴が言ってたのは本当だけど、そんなの、誰も信じるわけないし」
「わかってるよ」俺はうんざりして言う。「帰ろうぜ」
 しかし、明里は動かない。置いて帰るわけにもいかず、俺は辛抱強く待った。心臓はまだどきどきしている。落ち着け、と必死に自分に言い聞かせる。いつも通りでいろ、いつも通りで。
 やがて明里は意を決したように顎を上げて俺を見た。彼女も緊張しているようだった。
「ごめん、光也」
「なにが」
「転ばせてごめん」
「いいよ、べつに」俺は頭を掻いて視線を逸らす。「俺が余計なこと言ったせいだから」
「変な嘘にも付き合わせてごめん」
「それも、お互い様だ」
「え?」明里は瞬きする。「お互い様って、なにが?」
「俺はホモじゃねぇ。女が好きだ」
 ぽかんとしてから、明里はぷっと噴きだした。
「わかってるって!」
 こらえられなくなったらしく、あはは、と彼女はこちらの気も知らずに笑った。
 俺も溜息と一緒に笑い返す。胸が苦しくなった。
「あんたって、本当にふざけてるよね」彼女はまだくすくすしながら、目許をさっと擦った。「ありがとね、光也」
 ふざけてねぇよ、と心の中で言い返す。
 遠回しすぎたのかもしれないが、いまの発言だけでも、俺はかなりの勇気を振り絞ったのだ。
 そりゃ気づいてもらえないよな、と思う。
 でも、どんな形でも、明里が笑ってくれると安心したし、嬉しくもあった。おにぎりのお礼くらいにはなったかもしれない、と考え、自分に対してさえそんなせせこましい言い訳をしてしまう小心ぶりに、改めて呆れた。あのおにぎりが本当はどれだけ嬉しかったか、冬樹に食べてもらえず落ち込んでいた彼女をどれだけ励ましたかったか、気づいてもらいたがっている自分が恥ずかしかった。
 そのとき、夕暮れの道路の向こうから、自転車がライトを光らせてやってきた。
 道を譲ろうとして俺たちは植え込みのほうに体を退いたが、自転車に乗っていたのはなんと冬樹だった。
「あれ、どうしたんだ?」俺はびっくりして尋ねる。「今日、休みだったんじゃねぇの?」
 冬樹は木曜日と同じジャージ姿で、体中に草の切れ端や土をくっつけていた。虫取り網を斜めに携え、どういうつもりか、自転車の前かごには小さな水槽を入れている。
「どうしたの?」と明里も驚いている。
「よかった、二人ともまだいて」冬樹はにっこりして自転車を降りた。「これ見てよ」
 そう言って、冬樹は水槽を地面に置く。
 薄暗くてすぐにわからなかったが、中でなにかが蠢く気配があった。
 俺と明里は息を呑んで、水槽の中身を凝視した。
「明里の言う通りだったよ。さっき見つけて捕まえたんだ」冬樹は鼻を高くして言った。「見れば見るほど変な生物だよね、これ」
 俺は明里と顔を見合わせる。
 どちらかが先に噴き出し、それから、二人で腹がよじれるほど笑い合った。



<了>



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※2017年頃執筆。(改稿)
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(アトリエラムレーズン様)

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