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【1000字】いつか花が枯れるまで

 妹が花になったと連絡が入り、僕は大学の講義をいくつか諦めて病院へ駆けつけた。人間をやめるという話は本人の口から長いこと聞かされていたので、来るべき日が来たのだという実感しか湧かなかった。
 妹の抜け殻は胸の上で両手を組み、その指の隙間から赤い花をまっすぐ咲かせていた。彼岸花だった。花の品種は本人が事前に決めたものだ。そこまで悪趣味なやつだとは思わなかったので、僕はつい顔をしかめてしまう。
 手続きを済ませ、摘出された花を妹の私物と一緒に受け取った。聞いていたとおり、花の根は妹の心臓と直結している。ビニールの鉢植えを手にしたとき、その冷たく滑らかな手触りの奥でどくどくと脈打っているのが感じられた。

 帰宅してから、僕は妹の荷物の整理を始めた。とは言っても、ほとんどがもう不要品で、ごみ袋か段ボールに直行する運命だ。すぐ終わる楽な作業。しかし、日記が紛れているのを見つけると、僕は作業をほっぽりだして読み耽ってしまった。
 日記は妹が不登校になった日から始まり、母が死んだ日を経て、先週の日付で終わっていた。おおよそ二年分、妹の性格を考えると比較的長続きしたほうだろう。
「わたしは誰でもなくなることを望む」最後の頁に、強い筆圧でそう書かれていた。「わたしはわたしという人間をやめ、誰にもならないことを望む。願わくは完璧な静謐が訪れんことを」
 イタイやっちゃなぁ、と呆れながら窓辺の鉢植えを見る。妹は春の風に吹かれ、ゆらゆらと茎を揺らしていた。

 それから僕は毎日、自分でも驚くほどこまめに妹の世話をしている。適切な量の水をやり、適切な間隔をおいて陽射しを当てる。声をかけると長生きする、という話を聞いてからは「おはよう」とか「調子どう?」と挨拶するようになった。妹が人間だった頃には、こんなふうにかまってやったことはなかった気がする。
「やぁ、お元気?」
 今日も僕は窓辺の妹に声をかける。彼女は相変わらず気難しい沈黙を貫いている。
「花になるってどんな気分?」
 やはり答えはない。風に吹かれてかすかに茎を揺らすだけ。
「そういえば、きみは誰だったかな?」
 鉢の中の心臓が悲しげに震えたので、僕は思わず意地の悪い笑みを浮かべてしまった。

 ねぇ、逃げられないんだよ。
 どれだけ姿を変えたって。
 きみがきみであることからは。
 いつか心臓が止まるまで……。



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