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【1000字】ゼア・オール・ゴーン

 戦争が終わって最初に空へ顔を上げたのは、川べりに咲いた花たちだった。言葉を持たず、風に揺られるばかりの彼らにも、なにかが終わったことが感じられたのである。
 鉄橋を行き交う者の姿はまだない。特急列車も、人を詰め込んだ輸送列車も、鋼鉄の線路を震わせることはなかった。森から飛び立ったカラスたちが瓦礫の街を目指して、橋桁の上空を滑るばかりである。

 ひとりの少女が川べりに立った。
 彼女は垢で黒ずんだ顔を鉄橋へ向けている。半ズボンから覗く幼い形の膝を、草花が穏やかにくすぐっている。
 少女は戦争が終わったことをまだ知らない。戦争がどんなものなのかもよく知らない。隠れ家で共に暮らす叔母が何度か教えたが、彼女の歳ではまだ理解できない話だった。両親は、少女が赤ん坊だった頃にどこかへ連れていかれた。「戦争が終わったら帰ってくる」と叔母はいつも泣きながら嘘をつく。

 やがて鉄橋の向こうから何台ものトラックがやってきた。
 幌を外した荷台に疲れ果てた男たちを乗せ、トラックは線路脇の道をのろのろ走る。男たちはみな銃を抱えているが、銃口はすべて所在なく空へ向いていた。実のところ、弾丸はとうに底をついているのだ。
 男たちは眩しそうに青空を仰ぐばかりで、誰も口を利こうとしない。
 彼らは戦争が終わったことを知っている。自分たちが戦争に負けたことも知っている。しかし、肝心の、自分たちがこれから辿る運命については誰もなにも知らされていなかった。
 この沈黙の撤退がどこに通じているのかも、彼らにはわからない。

 トラックが鉄橋に差しかかると、少女は足許の花を摘んで駆け出した。なにも知らない彼女だが、なにかが変わったことだけはわかった。それがいったい何なのか、正体を確かめたかったのだ。
 男たちが少女に気づく。彼女に銃を向ける者はもういない。
「お花、いりませんか」
 橋を渡ったトラックへ、少女はおそるおそる花を差し出した。
 ひとりの男が身を乗り出して受け取った。男のくたびれた笑顔は、少女の顔と同じくらいに黒ずんでいる。

 ーー終わったんだ!
 いまでは少女もそれを確信していた。

 去っていくトラックへ、少女が声を弾ませて尋ねた。
「みんな、どこへいくの?」
 しかし、男たちの誰も、それに答えられる者はいなかった。



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