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【1000字】忘却の波打ち際で

 夜明けの海辺は、銀色の朝陽が昇るにつれて饒舌になり、まるで世界中のすべての音がここから生まれてくるかのような賑やかさだった。僕たちは靴を脱いで波打ち際に立ち、まだ冬の余韻を残す白波で足首を洗う。
「ねぇ、ここに名前を書いてみない?」
 彼女が提案し、僕も頷いて屈みこむ。波が引いた砂浜にふたりで指を走らせる。彼女の名前と僕の名前。親から授かった、というよりは、世界から与えられた識別子。良くも悪くも簡潔な、十にも満たないその文字列。
「次の波が来たら、消えちゃうかな」
 彼女が呟いたとき、僕はまだ書いている途中で、人差し指になんとなく力が入った。深く刻まれた僕の名に対し、彼女の名は浅く引かれて書かれている。消えてしまっても構わないというように。いつか滅びることを知っているかのように。

 ふいに僕は、足許に広がるこの砂浜が、地球の歴史の一部であることを悟る。
 もちろん、すべての大地は地球の一部であるわけで、そのほとんどが気の遠くなる時間をかけて形成されたもの、つまり歴史と同義であるわけだけれど、そのときの僕の脳裏に浮かんだイメージはそういった教科書の挿絵めいたものではなくて、もっと抽象的で象徴的、たとえば神話だとか伝承のような、掴みどころがないのに肌に馴染む物語、あるいは線を失くした絵のようなものだった。
 浅瀬は平坦だが、沖では海面が少しだけ盛り上がっている。きっと、多くの人々がその波に消えていったのだ。砂浜に名前も残せず、ただいくつかの泡を束の間だけ残し、そして最後には無表情な砂の一粒としてここに集められたのだ。
「わたしの名前って、つまんないよね」
 彼女の言葉に、僕は首を振る。
「つまらなくはないよ」
「そう? ありきたりで、忘れられそうじゃない?」
「忘れたら、また覚えるさ」
 その繰り返しが、つまり、生きるということじゃないのだろうか。
 新しい波が寄せてきて、砂浜を優しく包んだ。僕は足許に浮かんだ白波の模様と、ぷつぷつと浮かんだ泡のいくつかを見下ろす。冷たくて気持ちが良かった。

 ふと気配に気づいて振り向くと、見知らぬ女性が隣に屈みこんで、ぼんやりと早朝の海を眺めていた。
 なぜか僕は、その女性を昔から知っている気がした。
 なにか大事なものを落とした気がして、波が引いた足許を見下ろす。そこにはうっすらと文字らしきものが書かれていたけれど、すでに輪郭を失くして崩れ、もうすっかり読み取れなくなっていた。




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