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【1000字】ヴォイス

 気難しそうな、あるいはやや気の違っていそうな髭面の男が、薄暗い部屋で腕組みしている。私を台に立たせて、もう小一時間もそうしている。私は私で、気持ち良く寝ていたところを無理やり連れてこられたものだから、多分に腹が立っているのだけども、男はなぜか私より不機嫌な顔つきで、文句を言えそうな雰囲気ではまったくなかった。

 ずいぶん経って、日が暮れたあと、ようやく男が私に触れようとしたが、すぐにその手を引っ込め、今度はうろうろと部屋を歩き回った。その間も目は炯々として、私をじっと捉えている。私の心境はもはや怒りも恐怖も越し、ただ男に対する興味で膨れていた。
「言いたいことがあるのなら、言ってみてはどうですか」
 言葉が通じるとは思わなかったが、私は言ってみた。
 男は息を詰めて肩を震わせ、また私を凝視する。目の端が黄色い。病気なのかもしれない。また手を伸ばそうとして、まるで熱いものに触れたかのように引っ込めた。
「私に触れたいなら、触れればよいではありませんか」
 男は叱られた子供のような目つきでまた私を見る。そして、今度こそ私に触れた。乾いて節くれだった、男の指の感触。その熱が私の肌の上で道を探すようにさまよった。
 唐突に、この男のなすがままにさせてみようか、という気持ちが芽生えた。
「いいですよ」私は言った。「あなたのお好きなようになさってください」
 男もまた、私に対するなんらかの覚悟を決めたようだった。それからの行動は早かった。私に鑿を当てて躊躇なく槌を打つ。私は、男の愚直なまでにひたむきな、薄汚れた顔を眺めながら声をかけ続けた。

 夜が更け、朝がきて、また夜がやってきても、男は食事もとらずに私に向かい続けた。私はいまや、私がこれまでの私でなく、なにか別次元の存在へ昇華していくのを予感した。それは時間や空間、あるいは感情も理屈も超えていく、唯一無二の感覚だった。
 そうして私は男の作品として生まれ変わった。
 その後、男は名声を得たが、作品について多くを語らず、最期まで質素に、寡黙に、どこまでも謙虚な男として生涯を終えた。男が私の声を理解し、従っていたことは明らかだ。稀代の芸術家であったことは間違いない。

 それから数百年の時が経った。
 私はいま、イタリアのとある美術館で、男の名と共に展示されている。日に何十人、あるいは何百人もの人々が私を眺めていく。あなたも、近くまで来たときにはぜひ立ち寄ってみてほしいと思う。



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