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松野志部彦
2023年3月31日 12:38
彼女の胸に触れたとき、柔らかい膨らみの片方が、ぱちん、と音を立てて破裂した。昼休みの体育館倉庫にその音は恐ろしく大きく響き渡った。 彼女は短く息を吸い、体を庇うようにしてうずくまる。ブラウスの背中にブラジャーの線が悩ましく浮かんだが、僕はすっかりうろたえて、行為を続けるどころではなかった。「ごめん、こういうのはまだ早いよな」 焦って早口に言う僕に背を向けたまま、彼女はじっと押し黙っている。
2023年3月30日 11:02
ルルンはそれまで月面コロニーで暮らしていたという。親の離婚で、母方の実家があるこの町に越してきたらしい。 町には月育ちの子なんていなかったので、転校生の彼女の名はたちまち知れ渡った。重力の違いのために背丈が大人並に高く、それと引き換えに筋力はほとんどない。肌は日光を知らない白色。隣席の僕は彼女のかわりに重い荷物を運ぶ役目をしばしば任された。それは少し恥ずかしく、どことなく誇らしい仕事でもあった
2023年3月29日 07:10
車がガードレールを突き破り、私は肉体の鈍重さを思い知る。我々に残された時間は、谷底に激突するまでの刹那のみ。できることは限られているのに、思考だけがこうして加速しているのだ。 妻はハンドルを握って前方を凝視している。私は助手席で体を捻り、彼女のほうを向いていた。直前までどんな会話をしていたか憶えていない。喧嘩の途中だった気がする。ひどい口論をしていた。それで、妻はハンドルを切るのが遅れたのだ。
2023年3月28日 12:42
戦争が終わって最初に空へ顔を上げたのは、川べりに咲いた花たちだった。言葉を持たず、風に揺られるばかりの彼らにも、なにかが終わったことが感じられたのである。 鉄橋を行き交う者の姿はまだない。特急列車も、人を詰め込んだ輸送列車も、鋼鉄の線路を震わせることはなかった。森から飛び立ったカラスたちが瓦礫の街を目指して、橋桁の上空を滑るばかりである。 ひとりの少女が川べりに立った。 彼女は垢で黒ずん
2023年3月27日 14:42
昼下がりの部屋にぶかぶかのスーツを着た少年が入ってくる。緊張した面持ちで、レコード盤を大事そうに抱えている。少年以外には誰もいない。 プレーヤーからざらついたジャズが流れだす。少年はソファに腰かけ、しばらくは演奏に耳を傾ける。やがて身を屈めるような姿勢になり、ガラステーブルに両手を乗せる。 爪先で拍を取っているところで、数人の男たちが部屋にやってくる。彼らは無言で楽器を準備する。少年には目
2023年3月27日 12:42
久々に実家へ戻ると、愛すべき我が家が姿を消していて、かわりに小さな遊園地が出来上がっていた。入場ゲートの前で呆然としていると、受付にいた母が僕を呼んだ。「お父さんのせいなのよ。お家を取り壊して遊園地を作っちゃったの。昔からの夢だったんだって」母の声は非難と誇らしさが綯い交ぜになっている。「あんた、せっかくだから遊んでいきなさい」 僕は促されるままにゲートをくぐる。休日だというのに園内は霊園の
2023年3月25日 20:24
この町には罪人の首を刎ねる習慣が残っていて、しかもそれは見世物として観光客に人気があるという。ガイドに誘われ、私は首切り広場へと出かけた。大変賑わっている。菓子や酒を売るテントが並んでいて、その光景が私に故郷の祭を思い出させた。「皆、人の死ぬところが見たいのか」「まぁ、首切りを公に見られるのは世界中でもここだけですから」ガイドはなんともいえない笑みを浮かべた。「見物にはお金がいりますが……」
2023年3月25日 16:30
昔々、あるところに正直じいさんと嘘つきじいさんが住んでおりました。 嘘つきじいさんはその名のとおり、嘘しかつきません。たとえば、道を尋ねられると正反対の道を教え、空が晴れていると「今日は雨だ」と騒いで回ります。なにがしたいのでしょうか。なにか益を得ているわけではないので、ピンポイントに罰する法もありません。ただただウザいだけの存在です。 子供の頃から嘘つきじいさんはこんな調子でした。 宿題
2023年3月25日 08:01
いつの間にか雨が小降りになって、山林にはまた不吉な静けさが戻っていた。煙るような霧が辺りに立ち込め、崖っぷちをなぞるガードレールも、もう霞んで見えない。まるで雲の中にいるかのよう。しかし、ジロは怯む様子もなく、一心不乱に土を掘り返している。 ジロに引っ張られて歩くうち、僕らはいつもの散歩道を逸れ、山林へと迷い込んでしまった。夏になると土砂崩れが多発する山で、これまで何人も亡くなっている。空気が
2023年3月24日 23:57
息が詰まりそうな駅の雑踏で、わたしは顔も知らない友人を待っている。手には彼女から届いた手紙。わたしの退院を祝う言葉と食事の約束が書かれている。その青い便箋が、二人が出会うための目印だ。 彼女はわたしと同じ心の病気を抱えている。 わたしたちが文通を始めたのも、医師による勧めがきっかけだった。顔も知らない誰かと手紙を交換することが、治療の一環になるという。実際、わたしはこれまで彼女とのなにげない
2023年3月24日 12:50
世界一の高層ビルの屋上で、貧相な翼を生やした男が引きずられていく。翼が生えて三日目のことだ。「無理に決まってるだろ」と男は喚くが、人々は聞く耳を持たず、にこにこにやにや、善意とも悪意とも取れない笑みを浮かべている。「あなたはほかの人と違っていると思ってたわ」と男の恋人が抱擁する。「お前は私たちの誇りだよ」と両親が嬉し涙を流す。「俺にも翼があったらなぁ」と友人たちが溜息をつく。「お前の初フラ
2023年3月24日 08:41
何百人もの兵隊が我が家へ向けて行軍していると知り、私は車をすっ飛ばして帰る。絶望が指を震わせた。戦中に犯した私の罪が、ついに白日に晒されたのだ。 家の周囲にまだ兵隊の姿はない。私は急いで書斎へ飛び込み、隠していた拳銃に弾を込める。それから玄関をソファーで塞ぎ、窓に鍵をかけ、二階の寝室に立てこもった。逃げるという考えは端からなかった。何百人もの兵隊がやってくるのだ。もはやこの国のどこに逃げたって
2023年3月23日 19:12
「うちに熊がいるから見に来ない?」と女は言う。飼っているわけでなく、野生の熊が真夜中にやってくるという。彼女の両親は先週、その熊に食われたらしい。「父親も母親も大嫌いだったから、あの子には感謝しているくらいなの。姉貴もいたらよかったのに」「お姉さんは無事だったんだね」「去年、家を出て行ったの。運の良いやつだよ。あんたも、殺したいやつがいたら連れてくればいいよ。熊が食べてくれるから」 特に予
2023年3月23日 14:20
妹が花になったと連絡が入り、僕は大学の講義をいくつか諦めて病院へ駆けつけた。人間をやめるという話は本人の口から長いこと聞かされていたので、来るべき日が来たのだという実感しか湧かなかった。 妹の抜け殻は胸の上で両手を組み、その指の隙間から赤い花をまっすぐ咲かせていた。彼岸花だった。花の品種は本人が事前に決めたものだ。そこまで悪趣味なやつだとは思わなかったので、僕はつい顔をしかめてしまう。 手続