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眠れない夜には

眠れない。

どうにもこうにも眠れない。
明日は8:00に起きる。
その予定なのに眠れない。

最近朝活を始めた。
8:00に起きて柔軟をして、
お白湯など温かい飲み物を飲んで、
読書か創作かをする。
これが意外と楽しくて、
続いている。

明日も朝活をしたい。
そう思っているのに寝られない。

思いつく限りのことはとりあえず一通りしてみた。五十音を一つ決めてその音から始まる単語を永遠と連想したり、自律訓練法で体を休息状態に持って行ったり、体勢を変えてみたり。

とは言え寝られない。
というのも考え事が止まらないのだ。

考え事というのは、
次作るネタだったり、企画だったり、曲だったり、人生だったりについての、アイデアやうまくいかないなというあれこれ。
こういう時に限って、メモしたい事をあれこれと思いつくのはなんなんだろう。

寝なきゃ。でも止まらない。
寝なきゃ。あ、こういうのはどうだろう。
寝なきゃ。あれはまだ途中で進めてないな。
寝なきゃ。でも止まらない。

ならもういっそ、今日を考え込んでやろう。
眠れない夜には、考え事をしまくってやる。
と、アプリを立ち上げ今に至る。

考えたこと、ここに残して置くのだ。
最近書けてないnoteも書けて、一石二鳥である。

今日はパートナーと、自分の歴史の話をした。
それはアイデンティティに深く関わる部分で、『MIU404』で言うところの、スイッチに関わるようなこと。これを経ても、僕らはこうして出会えて、こうして話し合えた事が、本当に運がいいし、尊い事だと思う。

非行少年が生まれてしまうのは、教育機会の欠落だと言うセリフがあった。俺もそう思う。悪いことは、しない選択があるならしない筈だ。せざるを得なくなったそれまでの過程に、しなくてもいい事を教えてくれる人に出会えていたら。してしまった後でも、それが取り返せることや人間は変われることを教えてくれるものに出会えていたら。
そのスイッチに、俺はなりたい。

面白くなりたい。
こうしたら面白いかなと考える。
ここまではいいんだ。
でもこれが行きすぎてしまいそうになる時がある。それで、人を傷つけそうになる時がある。
自分を傷つけそうな時がある。こうした時、やっぱり冷静でいないといけない。
例えば面白いを探して、全裸で友達を出迎えるドッキリとかやったとして、その友達が裸がトラウマだったら。
探して探していきすぎるあまり、自らを追い込んでしまわないか。
面白い人間だとして、生きているためには、そう言うブレーキとしての常識が必要だな。

今日はいい事があった。
それでかなり、肩の荷が降りた。
自分のことじゃないけれど、自分のことのように嬉しい。それで勢いでたくさん遊んだ。これまで色々遊んだけれど、比べられないぐらいの位置に、今日の遊びがある。勢いで決めて、寿司を食って、カラオケをした。特別だ。忘れたくないし大事にしたい。

トーンポリシングというものがあるらしい。
炎上事件について考えるうちに知った。
相手の論ではなくそのトーンについて「落ち着いて」などと言葉にすることで、論からはぐらかすような手法(と呼ばれるもの)(らしいが手法なんて言葉を使うのは悪意があるようで好きではない)(が、心理学的にはそういうものだと概念化されている)だそうだ。
自分はよく、トーンポリシングをしているような気がする。というのは、自分を他人の枠にはめてきた自分にとっては、そのトーンこそが、第1の情報であるからだ。
トーン次第で、論の伝わり方が変わる。それを身をもって体感し、そればかりを感受してきた俺にとって、すごく難題を発見したなと関心した。
「じゃあどうすればいいか」が俺にはまだ分からない。あなたの言い分も、ジョークも、怒りも、悲しみも、仲裁だって、悪意ゆえではないはずだ。それを全部受け入れたい。認めたい。
のにやはり、人は争う。

恵まれているのは、この国の争いが言葉であること。助かった。取り返しが効く。何度でも話そう。話して済むなら話そう。話そう。話そう。話そう。

人は平和を求める。と同時に、人と括れるのかどうか怪しいぐらいに別の生命体である。我々は愛し合っている。だがどうして、争いは起きる。みんな仲良くを目指すためには、誰一人欠けることなく、宗教じみたそれを信じる事が前提になければならない。劇団の主宰から頂いた大切な言葉。「言葉は祈りだ」という事が身に染みる。我々は、毎日毎日、祈って祈って生きている。

出来るだろうか。程遠いだろうか。
難しいことは分かる。だけど、諦めてしまっては終わりだ。希望の光を絶やさないよう、俺だけは馬鹿馬鹿しく「できる」と信じていたい。

継続の出来なさに呆れている。
この、noteの事である。
毎日書くと決めて、もう半年が経ったか、
お察しの通り、全く毎日かけていない。
もうハッシュタグにつけている「毎日」は、
「日毎に」という意味ではなく「俺という人間の日々」というニュアンスにいつのまにか変化した。

そもそも、これを始めたのにはきっかけがある。
俺は、創作を仕事にしたい。
創作で生きていけるようになりたい。
そんな夢を持つからには、ある程度、業を背負おうと、毎日なんでもいいから、文字を並べる作業をしようと思ったのがきっかけだ。
死なない限り生きているので、その日のことを書けばネタには困らないはずだし、思った事や思いついた創作があれば書けばいい。熱い思いを感じれば、その熱意のまま吐き出せばいい。嘘を吐きたければつけばいい。アイデアを膨らますための発散をしたければ、ここですればいい。まだ無名のただの男だ。どうせ誰も見ていないから、恥だってかいて、もがいて足掻こう。そういう場として、作ったのがここだった。

初めの1ヶ月は、ちゃんと続いた。
何かを継続したことのない人間だったので、1ヶ月も何かを成し遂げたのは、全然書いてない今でも胸を張って誇れる。始めようと思えば、1ヶ月頑張れる男だと思えた。

だがここ最近はどうだろう。
1週間溜めては、3つぐらい一気に書いて、
それで良い気になって、また溜めて。
いつしかnoteが重圧になり、書くことがないかと探す日々になり、今もこうしてマットレスに寝ながらぽちぽちしているこの時間も、「実はこのド深夜に外に出て、そこにいる人に話しかけたら面白いのでは?」なんて危険そうなことを実行する一歩手前まで来ている。
正直言って、どうかしている。のかどうかもわからない。普通ってなんだろう。普通と言われた時、普通ってなんだといつも考える。基準のことか。基準は誰が決めた。そいつは正しいか。その多数決の多数が間違っていたら。少数もろとも死んでいくぞ。なんて。

話が逸れてしまった。
とりあえずこの、書くという事が重圧になり、自由に書けないようになっているのだ。これはいけない。

しかし、当初はそんな事も想定の範疇だった。それも含めて業を背負ったのだ。
というのも、創作を仕事にする以上、書きたくない時も書かなければいけない時が来るだろう。いずれ来る(かどうかはわからないが、来る)その時に向かって、今から準備しておくのは賢い人間のやる事だと自分を煽り、これまでやってきたのである。

だけどそれにも、音をあげる時が来る。
もうどうにも、そんな時だって書けないのだ。
なんてったって、楽しくない。
楽しくかけていない。
そりゃ仕事なんだもの、楽しさより納期が優先だと思うのが社会で、納期より楽しさが優先だと思うのが自分だとしたら。
それはもう、自分を大事にしよう。
自分へ。ご自愛ください。

眠れない夜には。

眠れない夜には、不安が襲いかかってくるようなパターンが多い。それかもしくは、ただ過ぎていくだけの時間か。今回の場合は後者に近い。心に不安の影はあまりない。

かと言って多くの場合、不安の足音を聞いて震えるような夜だろう。

そんな夜には、目一杯、溢れんばかりに、過剰包装のように、過保護に、自分を暖めて欲しい。『眠れない』というだけで将来を案ずるあなたは、相当頑張っている。頑張ってて、凄くて、努力家で、理想があって、リスクも考えられる、そんな愛のある人だ。そんな人は、起きているうちのあなたがどうにかやり切るだろう。眠れないあなたは、どうか、あなたの好きな方法で、例えば本を読んだり、音楽を聴いたり、素敵なアロマを焚いたりして、自分を甘やかす事に夢中になって欲しい。

つまり以上のことをまとめるとこうだ。

眠れない夜には、これくらいの文字量で、たっぷり人生の言い訳をしよう。

20210216

〈食事〉
朝:コーンフレーク
昼:寿司
夜:メカジキの西京焼き、ピーマンナスチャンプルー

〈エンタメ〉
マツコの知らない世界
星野源『創造』
気まぐれクック
瀬戸弘司
今日も嫁を口説こうか
ピクミン3デラックス

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