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短編小説「花緑青」


 旋律は、ヨシノが仏壇に線香をあげ、ロケットペンダントをひらけようとしたときに始まった。鳴れば焦るスマートフォンを、便利だからとアヤノの孫である聖がプレゼントしてくれたのである。小刻みに震える指先で受話器のマークをタッチして、はい、と電話に出る。

 「お姉ちゃん、おはよう。雪は大丈夫?」
 「おはよう。いける、いける。毎年のことよ」
 「食べ物はある?」
 「ようけある。心配いらん」
 「そう、ならいいけど。なんかあったらすぐに電話して、すぐによ」
 「はいわかった、ありがとう」
 「じゃあね、お姉ちゃん。またあとで・・・・・・」

 徳島県の西部、剣山に端を発する祖谷川と落合川の交わるところ、三好市東祖谷落合と呼ばれる地域である。山の険しい斜面の中腹にヨシノの家はある。それは向いの山から集落を眺めれば中腹だと分かるのだが、自分が中腹に住んでいるという実感は乏しい。なぜなら、家の外は見はるかす一面の空と山であるのだから。祖谷川の恩恵を受けた植物が根を張る大地に、江戸時代の人々は家屋を建て耕作して暮らした。

 険しい斜面と言っても整備された林道があり、里道があるから車は通る。主な生活物資は定期的にやって来る移動販売の二トントラックや生協の配達、自分の芋畑や遠い近所からのおすそ分けで十分賄えた。ヨシノは今年八十歳になる。両親はとうに死に、妹のアヤノも死んだ。同級生も大方死んだ。だがこうして、盆暮れに限らず、東京から電話を寄こす聖がいるからちっとも寂しくなんかない、と思うのである。

 スマートフォンを炬燵の上に置いて仏壇に戻った。緑青が吹いたロケットペンダントをひらけると、真剣な二つの目がヨシノを見つめた。笑窪のせいで笑顔に見える少年を飽きるほど見つめたはずなのに、未だに鎖骨のあたりに熱が帯びてくるのが不思議だった。ペンダントを閉じて天井を見た。前夜からしきりに雪が降って、今朝にはたくさん積もった。恐らく二十センチ程であろう。この程度の積雪は毎年のことであるから心配ないと思うものの、家屋の老朽化は老いさらばえた我が身を確実に不安にさせる。一方で、これまで自然災害に打勝ってきた実績を思い起こし、なんとかなるだろうとも考える。独り身のヨシノはいつでも家屋と共に朽ち果てる覚悟でいるのに、神様はなかなかそうさせてはくれない。

 偲ばれてならないのは昨年の今頃、しきりに雪が降った立春過ぎの日だった。集落の一人暮らしの老人が屋根の様子を見ようとして梯子から転落し、翌朝、新聞配達人が屍を発見したのだ。―まだ死なんでもよかったんよ。春は山桜、夏は太郎笈でキレンゲショウマ、盆が明けたらリンドウ、駆け足で過ぎる紅葉やらを、あんたは一緒に見たいっちゅうとった。ワシもその気でおったのに、そう約束したんでなかったか・・・・・・。鼻の奥がきゅんと熱くなりさらさらと鼻水が流れた。寂しくなんかないと思っていても、どこからともなくやってくる寂寥は、ヨシノの垢となり皮膚の一部となって体を覆うのである。

 ティッシュを引き抜いて鼻をかみ、丸めてゴミ箱に捨てようとしたときだった。玄関のチャイムが鳴った。朝から誰だろう?と思いつつ戸を開けると、聖である。ヨシノはいっぺんに目が覚めた。
 「お姉ちゃんが心配でさ、てか、会いたくってさ、来ちゃった」
 「いつの間に来た?さっき電話で話したばかりではないか」
 「阿波池田に着いた途端、この雪でしょう、もうビックリよ。だからね、急いでお姉ちゃんに電話したの。昨日の夜行バスに乗ったのは神様のお告げかもね」

 はち切れんばかりに膨らんだ二つのビニール袋を框に置き、背中のリュックを下ろし、ヨシノがすっぽり入れそうな大きさのキャリーケースを三和土に運び入れた。小柄で華奢な体つきの聖が大荷物を抱えて集落の斜面を上がる姿を想像すると空恐ろしいばかりである。

 「タクシー、使ったよ」と聖は言った。「いくらなんでもここまで歩いて来れないもの」
 片頬に笑窪のある愛くるしい顔である。聖はビニール袋を提げて台所に行くと、冷蔵庫や戸棚に袋の中身を次々にしまった。しまい終えると、仏壇の前に正座し、手を合わせて、目をつむった。線香から四方八方に勢いよく煙がたなびいた。
 「ねえ、お姉ちゃん。続き、聞かせてよ」
 「さて、どこまで話たか?」
 「おばあちゃんが小学三年生になるまで」

 以前、聖にアヤノの昔話をしたのだった。なぜそんな話になったのか忘れてしまったが、その続きを聞きたがっているのである。ヨシノは台所に行き、袋からせんべいを出して菓子皿に移すと、聖が緑茶を用意して共に炬燵に入った。
 「紅葉はな、見下ろすよりも見上げるほうがずっとええ。色づいた葉が澄んだ空をぎゅうっと掴んで離さない。学校の帰りにアヤノに見せてやろうと谷へ降りた。谷へ行くには釣り人が通る道順を辿って降りる。簡単なことよ」

 ヨシノは緑茶をひとくち啜った。聖は、うん、うん、と頷きながら奥歯でせんべいを旨そうに食べた。醤油の香ばしい匂いが部屋に漂い、束の間、ヨシノの食欲を誘う。もうひとくち緑茶を啜って話を続けた。
 谷に降りると、アヤノが何かを見つけて拾ったのである。
 「お姉ちゃん、見て見てぇ」宝物を見せるみたいに、そっと楕円型の小石を差し出した。

「この色は花緑青というんよ」絵の具の緑、黄、銀、白を加減して混ぜれば花緑青になる、と授業で習ったばかりであったから迷わず教えてやった。
「ハナ、ロクロウ。あっちも、こっちも、ようけあるじょ」アヤノは紅葉よりも石探しに目を輝かせ、学校帰りに決まってロクロウを探すようになったのだ。

 梅雨曇りの生温い空気が祖谷川の流れを緩やかにし、クラス中が夏休みまでの日数を指折り数え始めた頃、園田哲という転校生が東京からやってきた。誰もが憧れ、胸がときめく未知の土地から、彼は六年二組にやってきたのだ。当時、それはまるでマシマロのようだった。名前は知っているが誰も食べたことのないマシマロを目の前にして、仲間の一人が勇気を出して口に入れ、「美味しい」と言うまで固唾を飲んで見守るように、クラスの誰もが眩しそうに彼を見つめた。歯切れのいい口調で自己紹介し、口を動かすたびに陥没する笑窪を、彼が澄ました顔で着席するまでヨシノは目で追った。
 

 いつものようにアヤノと石を探していると、「やぁ、こんにちは」と園田哲がやって来た。 
 転校してきてから一週間経つけれど、ヨシノはまだしゃべったことがない。彼はいつも澄ましている。クラスメイトの視線を承知で、わざと澄ましているようにも見えるのだ。
 指先で頭頂部を掻きながら、「なに探してるの?」とヨシノに訊いた。「石」と答えると、「どんな石を探せばいいのか、僕にも教えてよ」ひとなつっこそうな笑窪でほほ笑むと、澄ました顔はヨシノの目の前で散り々になって消えたのである。彼はおもむろに前髪をかきあげてアヤノに視線を移すと、「きみの妹?」と訊いた。
 きみ、と言われたのは初めてだった。川鵜が羽ばたいて空へ飛び、ふわりとした風が頬をなでると川のせせらぎがひときわ大きくなった。「そうじゃ、妹のアヤノ」と答えると、笑窪の顔で、「きみと似てないね」と言った。
 似てない、といわれたのも初めてである。何故だかいい気持ちはしない。大抵のとき、似ている部分を指して「似ている」と褒めるのではないだろうか、とヨシノは思った。 
 もうすぐ日が暮れる。日の沈む前に家に帰るよう、父に厳しくいわれているから、「また明日」と哲に挨拶してアヤノの手を取ると、「嫌、まだ探すぅ」としゃがんだまま動こうともしない。仕方なしにヨシノもしゃがんだのだが、山稜に沿って僅かに見える残照に父の顔ばかりが浮かんで来、はやる気持ちが増幅した。石の色が判別できなくなったのを理由にして、アヤノを強引に家に連れて帰ったのだった。家に着くと父が戸口で待っていた。「お父ちゃん、ただいま」となるたけ陽気に挨拶し、「遅うなってごめんなさい」と謝った。アヤノはさっさと家の中へ入って行く。脱ぎっぱなしの靴を見るともなしに見ているうち、濁った古井戸の水面から底は見えないのに、それでも底を見定めなければならないという義務感が、ヨシノの胸に押し寄せた。「早う入りなさい」と父が言い、ヨシノは靴を脱いで上がり框に両膝をつき、アヤノの靴を揃えたあと、その横に自分の靴を揃えた。

 聖はせんべいを平らげた。「それで、三人はどうなるの?」食べたりない様子であるから、お菓子を取って来い、と言うと冷凍の肉まんを温めはじめた。肉汁のにおいが線香と混じり合って妙な臭いがする。お姉ちゃんも食べる?朝からいらん。ヨシノは二十六歳の食欲に我知らず嫉妬をもよおしたのである。

 その日以来、哲はたびたび谷にやってきて一緒にロクロウを探した。無邪気なアヤノを喜ばそうと懸命にロクロウを探す哲の姿に、学校では見たことのない側面に触れた気がして、胸に火が灯ったような思いにかられるのだった。

 中学を卒業すると園田一家は東京に帰り、哲はときどき手紙を寄こした。返事はアヤノがせっせと書いた。高校卒業後、哲は大学に進学し、ヨシノは看護学校に通い始めた頃、母がロケットペンダントをくれたのだった。その晩、六年二組の集合写真から哲を切り抜いてそこに嵌め込んだ。毎日首に着けては写真を見つめる小さな喜びは、日ごと想いを募らせた。だが、見つめるばかりではひとつも満たされない。
 お金を貯めて、哲に会いに行こう・・・・・・。その思い付きにヨシノはわくわくした。

 一年が過ぎ、薄曇りの空が祖谷地方に桜の開花を告げたのは、ヨシノが夜勤実習を終えた日の昼下がりだった。その日、ついに哲に会いに行く算段がついたのである。家に帰ればすぐさま机に向かい、哲に手紙を書くと考えただけで体のだるさは消え、力が漲り、胸は静かに高鳴った。ついぞない幸福感がヨシノを包んだのである。弾んだ胸を抱えて家に帰ると、郵便受けに絵葉書を見つけた。アヤノ宛である。差出人は哲であった。意識せずとも視野に納まる葉書の文面をヨシノは目で追った。アヤノに会いたいと綴ってあるのを捉えると、真冬の冷たい空気を吸い込んだ時のように鼻先がつんとした。

 ヨシノは見えない期待に胸を膨らませながら、何をそんなに待ちわびていたのだろうと思うと、滑稽で胸が痛んだ。アヤノの勉強机に葉書を置こうとしてロクロウを見つけると、あの頃、幼い二人にはすでに恋が芽生えていたのだと思いあたったのである。ヨシノは考えた末、哲に手紙を書いた。数日後、哲から返事が来た。「アヤノを大切にする」と書いてあるのを幾度となく読み返して封筒に戻した。そして鏡の前に座り、首からペンダントをそっとはずして小箱に入れ、抽斗の奥底にしまったのだった。

 やがて二人は結婚して娘をひとり産んだ。その娘が聖を産んだのである。アヤノは四年前の春先、この世を去った。

 湧いては消える雲が季節を冬へと誘い、残された者達が苦から癒えようとしていたある日のこと、ヨシノのスマートフォンが鳴った。はい、と電話に出る。「僕です」と言った。「きみと一緒に山の花を見て過ごしたい。僕が落合に住んでも迷惑じゃないだろうか?」
 木枯らし一号の吹いた日に、二つの小さな荷物を携えて、哲が落合の借家に越してきた。 
 年老いた二人は共に年越しそばを食べ、雑煮を食べた。立春過ぎに雪がしきりに降った。この雪が終われば花の一年が始まるはずだった。それなのに、哲は天に召されたのである。  
 約束は虚しく宙を彷徨い、疲れ果て、意味を失くしてヨシノの心に着地した。
 

 肉まんの竹の皮を慎重に剥がす聖を横目に、飲み干した湯呑の底を見つめて吐息をそっとついた。聖が「決めた!」と威勢よく言った。
 「あたし、決めたよ。ここがいい。お姉ちゃんと一緒にここで生きる。いいでしょう?」 
 聖の瞳の輝きはロクロウを見つけたときのアヤノと同じである。片頬の笑窪は、哲であろう。嫌がるアヤノを強引に連れ帰った日、どのみち父に謝るのであるから、いっそのことアヤノの気が済むまでロクロウを探させたらよかったのである。
 「ならば、こっちゃ来い」
 「やったぁ!」聖は再び肉まんをレンジに入れ「こうやってね、竹の皮を上にして温めると、ほうら、きれいに剥がれた」はい、お姉ちゃんどうぞ。朝からいらんと言うただろう。
 ヨシノはお茶を入れ替えようと台所に行った。ふと思い付いて、酢を塩と混ぜてボールに入れた。ペンダントの写真を外し、鎖ごとボールに漬け、しばらくして石鹸で洗った。すると緑青がすっかり取れたのである。ペンダントをようく拭いて写真を嵌め込み、鏡の前に座って首に着けた。皺の刻んだ顔とペンダントを見比べているうちに思わず鼻歌が出た。聖が横から覗き込んで「似合うじゃん!」と言った。何やら体中の垢が流れたような爽快感である。次いでアヤノのロクロウもきれいにしてやろうとボールに漬けた。
「お姉ちゃん、花緑青は花緑青のままじゃないの?」
 花緑青が取れたらどんな色になるのか、ヨシノは想像もつかない。      

                               (了) 

                                                     

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