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Johan HuizingaのHomo Ludensを大学院生が読むべき理由 (前篇)

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さて、Johan HuizingaのHomo Ludensを読了しました。
正直、これほどまで凄まじい本だとは全く思っていませんでした。

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私が手にとったのは上記の、西洋中世史が専門の里見元一郎さんが翻訳したもの。非常に平易で読みやすかったです。

ホイジンガは言います。

人間の文化は遊びにおいて、遊びとして成立し発展した。

ヨハン・ホイジンガ ホモ・ルーデンス

と。1903年にこの考えにたどり着き、30年以上かけてこの思想を練り上げこの本を仕上げたようです。その成立には、多大なる無理解に伴う批判があったことでしょう。彼はそれゆえ、様々な文化史の考察を元に、スポーツなどの一般的に明らかに遊びから成立したものと考えられているもの以上に、たとえば現代では遊びから比較的切り離されたもの、例えば宗教や戦い、演技、お祭り、寄付文化にも強く遊びから発生したものと考える根拠があることを示していきます。
多くの読者にとってここは驚くところでしょう。例えばスポーツや将棋、トランプについては、現在競技として専門に真剣にやっている方がいるくらい文化に近づいていますが、元は遊びだったと言われれば多くの人が納得されることでしょう。
ですが、裁判、戦争、そして宗教はいかがでしょうか?
ホイジンガは様々な原始的生活を営む民族の風習や、神話などから、それらも最初は遊びの要素を帯びていたと主張します。特に宗教においては、演じるという要素(英語でplayといいますよね)から切っても切れないものだと主張します。
このような、風土、神話等を深く研究することによって、画期的な一つの結論を導き出す点は最近読んだ本でいえば、ルネ・ジラールとよく似ていると感じました。

さて話しはずれましたが、個人的に私が気になった点は、ホイジンガの言う遊びの定義から導き出される、科学と"遊び"との関係です。本図書の冒頭でホイジンガは遊びの定義について以下のように述べています。

1)自由な行為である。
延期できるし中止もできる。ただし文化に広く根ざすと、そこに縛りができて強制性や義務を伴うようになります。
2) 日常生活から離れたものである
遊びは真面目に変わり、真面目は遊びに変わる。秘密があることにもつながる。遊びの世界では、遊びをしているとき、ありきたいの世界から離れ別のなにかになっている。
3) 利害を度外視したものである
4) 時間限限定がある。
5) 場所的限定がある。   
6) 独自の秩序がある。
遊びは秩序を創造する。 ルールは厳格に守られなければならない。
7) 緊張がある。

この定義から考えれば、我々、研究者が行う実験や研究にも、多分に遊びの要素があるように思われます。しかしながら、ホイジンガは本の末尾に近い部分において、このように結論しています。

科学において他人を出し抜く発見をしたいという欲求や論証によって相手を打ち負かそうという欲望が前面に出ることは好ましい徴候ではない。(中略)
(科学は)遊びの内容と通ずる点は比較的に少なく、また少しは備わっている遊びの特徴にしても最初科学が発生したばかりの頃やルネサンスから一八世紀に至る再生期にくらべると、いまはかなり乏しい、と。

ヨハン・ホイジンガ ホモ・ルーデンス

たしかに、研究や科学において相手を負かせてやろうとか、出し抜いてやろうという、ホイジンガの言う闘技的な要素は確かに望ましいものではないかもしれません。科学において、最も重要なのは真実を明らかにしようという探求心です。しかし、他の研究室より先んじて研究成果を出す必要があることは、多くの研究者にとって否定できない事実でしょう。

京都大学のとある研究所の逸話でこんなお話があります。

論文は外国に遅れたらしまい。1日でも早く投稿すること。そのためには,出来上がった原稿を火曜日の午後1時までに大阪中央郵便局に持参し,窓口で今日の便に間に合いますかと確かめて投函すること,そうすればその日の夜の便でロンドンに水曜日には到着し木曜日には Nature のオフィスに届く。万一遅れても金曜日には着くのでその週にまにあう。 

医 化 学 教 室 と 私

誰がどう見ても、そこには競争、闘技的な要素があり、ここにも遊びの要素がみてとれます。

さて、次回はなぜ研究を志すものが、本書を読んだほうがいいかに触れます。お楽しみに。

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