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アートワールドの生態学『現代アートとは何か』を読んで

「アートがミニマルになるほど、説明がマキシマムになる」批評家のヒルトン・クレイマーが1960年代に言った。大抵の場合、そのマキシマムな解説さえ、あまり役には立たない。なんといっても、アートを理解するには教養というものが必要らしい。
しかし、作品の価値なら値札に書いてあるのでは?値札なら私にも読める。例えば、アンディ・ウォーホルの《Shot Sage Blue Marilyn》(1964)はクリスティーズ・ニューヨークにて250億円で落札された。価格というものは、世界共通の評価基準である。その基準によると、たった1枚のシルクスクリーン作品が、そこそこ名の知れた新興企業の評価額よりも価値が高いことを意味する。少なくとも、市場はそのように評価した。
この事実は《Shot Sage Blue Marilyn》が、その面白さにおいて、週間少年ジャンプの860万倍であることを保証するだろうか。そうでないなら、その価値は何に基づいて、また、誰によって与えられたのか。
という問いを携えて本題に入ろう。

現代アートとは何か

現代アートとは何か | 小崎哲哉

「現代アート」とは1945年以降の(第二次世界大戦後の)芸術的表現を指す広義の用語である。特定の思想やイズム(運動)を指すわけではない。
アートはかつて美を志向していたが、近代以降、正確に言えばマルセル・デュシャンが便器にサインした1917年以降、美術は知術となり、形態よりもコンセプト(概念)を志向するようになった。これを進歩と呼ぶべきかは分からないが、不可逆な状態遷移である。要するに、アートが成立する条件が変わった
現代アートとは何か?ChatGPTは、以下のように回答する。

現代アートは多様な形式を持ち、絵画、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス、映像、写真、コンピューター、サウンドなど、あらゆるメディアを用いて表現されます。現代アートは、社会や文化、政治、科学、テクノロジー、自然、身体、ジェンダーなど、様々なテーマに触れることが多く、時には社会批評や政治的声明としても機能します。

現代アートは、従来の美術館やギャラリーの枠にとらわれず、公共空間やデジタル空間でも表現されることが多くなっています。また、アーティストたちはしばしば、観客を作品に参加させたり、作品を通じて観客との対話を促すような作品を制作することがあります。

出典: ChatGPT Feb 13 Version.

付け加えるなら、その作品は投資の対象であり、調度品でもあるようだ。他にも、欲望の隠喩、幼少期のトラウマ、自傷的なパフォーマンス、あるいは地方創生や誰かの救済に関係するものであったりするらしい。
現代アートと呼ばれるものが、どんなものであり得るか。それらを列挙したところで、われわれは作品とゴミを分別するチェックリストすらつくることができないだろう。
「現代アート」は多義的であり、その対象や範囲も確定していないのかもしれない。そもそもそれは、語り得ない対象なのだろうか。それなら精神分析か、否定神学の出番だろうか?
しかし、本書『現代アートとは何か』が採用するのはジャーナリズムである。曖昧なもの、多義的なもの、実態の無いものについて語ることができる唯一の方法は、それを成立させている主体について語ることである。
つまり、現代アートを成立させる場、システムとしての「アートワールド」。これが、どの様に機能して作品を定立し、その価値を決定するのか。その根拠は何か。これらを検討することで「現代アートとは何か」という問いに向き合ったのが本書『現代アートとは何か』である。

アートワールドとは何か

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アートワールド、といっても、そのような名前の団体/組織が存在するわけではもちろんない。アメリカの分析哲学者アーサー・ダントーは論文「アートワールド」(1964)の中でこの言葉を「ある芸術作品が芸術作品であることを保証する理論的・歴史的審級」であると述べた。要するに、なにがアリで、なにがナシかということを決定する価値判断の枠組みのことを言っている。アートワールドとは作品の評価や流通を可能にするシステムのことである。
『現代アートとは何か』ではアートワールドを構成するプレーヤーを、以下の6つに分類する。

  • マーケット

  • ミュージアム

  • クリティック

  • キュレーター

  • アーティスト

  • オーディエンス

昨年2022年、アート市場の流通額は8兆円以上に上った。この市場は資本主義の縮図と呼べるようなものだが、俗世の市場に輪をかけて寡占的である。なかでも現代アートの市場はForbes資産ランキング世界トップレベルの起業家や富豪、カタールの王族まで、世界の富を牛耳るスーパープレイヤーから成る非常に偏ったマーケットだ。
このため、投機的な取引など日常茶飯事であり、オークションでは不当に価格が操作されたのではないかという疑惑が後を断たない。このようなマーケット志向のアートワールドが「理論的・歴史的審級」たりえるのかと疑問に思われるのも無理はない。「現代アートを司る」とされるギャラリストやコレクターなど一部のセレブリティによる「都合」で作品の価値が操作されることは本当にないのだろうか?
実際にはもちろん、不正や勘違いも往々にしてあった。しかしアートワールドは西欧アート史の延長上にあり、一見自由奔放に見える現代アートは、コンテクストに縛られている。これは「何でもあり」の対極を意味する。
歴史と論理で運用しているのだから、直感に反することも受け入れなければならない。たとえば、2019年のアート・バーゼル・マイアミ・ビーチ(ABMB)では、1本のバナナを買うために15万ドル支払わなければならなかった。そのバナナは一房120円のバナナとはどこが違うのか?それは本物の作品を鑑賞することでおのずと分かる……というものではない。どんなに目を凝らしても、それは今朝食べたのと同じバナナである。
紙幣だってよく見ればただの紙切れだ。それと同じ理由で、そのバナナの価値は制度の方にある。つまり、その作品の実体は「概念(コンセプト)」であり、バナナは作品を象徴するための記念品に過ぎず、作品の資産価値はアートワールドとの関係性の中においてのみ存在するということだ。(その証拠に、バナナを食べてしまったデビッド・ダトゥナが弁償したという話は聞かない)
では、バナナに価値を与えたルールとは何か?そんなルールがあるなら、リンゴを使って、もうひと稼ぎできそうだ。しかし残念ながら、リンゴやみかんの出番は来ない。すでにルールは更新されたのだから。
市場が評価し、価値を与えるのは、この「ルールの更新」に対してである。
この様に、システムとしてのアートワールドの中には、西欧アート史との連続性、同一性を保つことと、自らをアップデートする差分を求めること、という2つの欲望が同居している。

現代アート作品がつくられる理由

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アーティストは自分のパーソナルな領域で、何物にも影響されること無く、自己の内面から浮かび上がるものを作品化している、と考える人がいるかも知れない。当のアーティストがそう言ったのだとしても、真実であるとは限らない。アートワールドで評価される現代アーティストは、歴史に精通し、バナナを黄金に変えるルールも知っている。
しかし一方で、もし作品の価値が歴史と論理のみで決定されるなら(つまり計算可能なものから成るなら)、あらゆる企業にアート事業部が設立されるだろう。そうなっていないなら、現代アート作品は通常の商品とは異なると言える。
前述した「ルールの更新」は、作品の制作において、非連続な発展=創発を期待するということである。アーティストはなぜこのような課題に取り組まなくてはならないのだろう。事業としては再現性がなく、モデル化出来ないビジネスである。当たればでかいからと言って、これに賭けるのは合理的な手段ではない。
アーティストはやはり、市場原理とは無関係に、作品を制作しなければならない理由があるのだろうか。「現代アートとは何か」では、アーティストが抱える「動機」を7つに分類して提示した。

  1. 新しい視覚と感覚の追求

  2. メディウム(媒体)と知覚の探求

  3. 制度への言及と異議

  4. アクチュアリティと政治

  5. 思想・哲学・科学・世界認識

  6. 私と世界・記憶・歴史・共同体

  7. エロス・タナトス・聖性

作品制作におけるすべての動機を網羅する、という趣旨ではないので、あくまで作品を解釈する補助線だと考えれば良い。仮に、私がなにか付け加えて良いなら、

8.恐怖の馴致

あたりか。(これについては長くなりそうなので別の記事に)

現代アートはわれわれに何をもたらすか

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社会学者のガブリエル・タルドはアーティストを社会的な存在ではなく「超社会的」存在と呼んだ。アーティストは社会に未だ存在しない価値を生産する存在であり、価値の創造は社会が包摂しないものを社会の中に持ってくることで達成される。そのようにして出来た作品とは、社会を拡張するものとして、社会とその外側の境界線上に生まれる。
社会の外側にあるものとは、社会から無視されたもの/排除されたもの/禁止されたものである。アーティストは、前述した7つの動機を携えて、社会の外部へとアクセスする。
社会の内部だけで完結しない作業には、当然、さまざまな問題が伴う。なぜなら、この行為は必ずしも制度や法律、倫理に準拠するものではないからだ。そもそも「善き市民」は、社会の外側などには無縁である。社会の外に出入りする、そのような者は不良であり、アウトローである。あるいはガブリエル・タルドの言う通り「超社会的」存在である。
それに、社会を拡張する、などという行為は危険である。世界の自明性を崩壊させるという点で、学問と同じくらい危険だ。それは必然的に社会とその外側の間にあるもの(=境界線)を傷つけ、破壊することを伴うからだ。
社会を傷つけ、人々を不快にさせるのが現代アーティストの仕事であるなら、現代アートが難解である、とか、不快であるというのも当然である。しかし、わたしは現代アートのそういった営みを支持する。なぜならそれは、社会にとって悪いことばかりでもない為である。
超社会的存在が拡大した領土は、初めは誰もその存在を認めず、人々から嫌悪され、元あった場所へと排除されようとするかもしれない。ところが、5年か10年も経てば、社会の一部として当たり前のものになることもある。いま私たちが立っている場所も、かつては世界の外側だった。常識を意に介さない、超社会的な変人(学者やアーティスト、エンジニアやアスリートなどのことである)が押し広げて奪い取った領土である。(もちろん私は芸術なら無罪、公共物破壊も著作権侵害も許しましょうなどという主張はしていない。単に、18世紀のパリで「人権」が違法な犯罪によって獲得されたときのことを思い出してほしい。)
われわれは、現代アートによって社会の外側へと開かれる。それによって、世界の根拠のなさ、偶然性に触れて愕然とする。意味や価値の一部が傷つく一方で、自らを制限するもの、勝敗や優越、劣等など価値の物差しを相対化し、無効化することで救済、癒しを得ることもある。
そんなご大層なものか?と思うかもしれないが、直観がショートカットするものを理屈に変換すると、小難しい哲学談義になってしまうだけだ。われわれが「現代アート」に心を打たれ、名状しがたいものに遭遇したとしたら、世界の向こう側から訪れた「作品」によって自己破壊がもたらされたせいだと思う。

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