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「太陽の結婚」の話

 古代ギリシア(紀元前600年頃)のアイソポス(俗にいうイソップ)が遺した寓話に「太陽と蛙」というものがある。その内容は、
 
 太陽の婚礼がおこなわれ、池に棲む蛙たちは御祝い気分でヤンヤヤンヤと浮かれていた。そこに蟇(ひきがえる)が現われ、「太陽は独身でも池を干上がらせるのに、結婚をしてよく似た子供を生んでみろ、我々はどんな災難に見舞われることか」と警鐘を鳴らすのだった。

 といったもの。そりゃ、そうだ。水が無くなりゃ、蛙は生きられぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。
 ところで、この寓話で老生が疑問に思うのは、「太陽の婚礼がおこなわれた」というクダリだ。ソモソモ論として、結婚はひとりでは成立しない。必ず相手を要る。ならば、太陽は“誰”と結婚したのだろうか。
 たいていの神話では、太陽の結婚相手は月ということになっている。なので、太陽と月が織りなす世紀の天体ショーである日食や月食は、太陽と月の夫婦が営む“性交”とされている。
 そんな太陽と月の結婚生活について面白い話がある。ジェフリー・パリンダーの『アフリカ神話』(青土社)によると、《太陽は月と結婚し、二人はたくさんの星を生んだという。だが時が経つにしたがって、月は夫に飽きて、愛人をもった》というのだ。妻の月にすれば、「三年目の浮気ぐらい大目にみてよ」と開き直りたいところだろう。まぁ、そんなこと言ったら、透かさず「馬鹿いってんじゃないよ」と返されそうだが。
 けれど、もし太陽の結婚相手が月ではなく、もうひとりの太陽だとしたら……。
 ひとつの惑星系に複数の太陽(恒星)があることを、天文学的には「連星」という。有名な連星の例といえば、老生的にはアニメ『太陽の牙ダグラム』(1981年作品)の物語の舞台となった“デロイア星”が思い出される。うーむ。この例は、ちとマニアック過ぎたか。ならば、1977年に公開されたSF映画の金字塔『スターウォーズ エピソードⅣ』に登場した“惑星タトゥイーン”で、どうだ! 原作本によれば、惑星タトゥイーンは《G1型とG2型の巨大な恒星から遠く離れたところで公転していたため、かなり高温ではあるものの、比較的安定した気候に恵まれていた》とあり、その地表は《ほとんどは乾いた砂漠である》と設定されていた。太陽が幾つもあれば地表は干上がる。是ぞ、まさにアイソポスの蟇(ひきがえる)が危惧した光景そのものだ。
 天に太陽がひとつなのは、地球に住まう者には承知の事実。それを疑う者は居るまい。だが、ひとたび広大な宇宙空間に目を転ずれば、連星はさして珍しいものではないという。太陽系から最も近い距離(といっても4.2光年先)にある恒星プロキシマ・ケンタウリは三重連星であり、ふたご座のカストルは六重連星だという。コリャ、太陽がいっぱい世界。現在の観測結果から、地球に近い30個の恒星のうち少なくとも13個が連星と確認されているそうだ。宇宙は連星に溢れている。むしろ、太陽系のような“ぼっち恒星”の方が珍しい存在なのだ。
 ところが、驚くべきものを発見してしまった。
 世界の神話・伝説を調べていたところ、かつて地球の空に複数の太陽が存在していたことを伝えるものを見付けてしまったのだ!
 例えば、シベリアはバイカル湖周辺に暮らす少数民族ブリャート族の神話には、「ひとつの大きな太陽とふたつの小さな太陽」が登場する。同じくシベリアのアムール川流域に住むオロチ族にも“3つの太陽”が出てくる神話がある。また、『ヴェトナム少数民族の神話』(明石書店)によれば、ムオン族の民間詩に《翁クオンミンバンサム/娘アーサムチョイ/九つ太陽を鋳れり》と詠っているものがあるという。お隣韓国の神話についても、『韓国シンボル事典』(平凡社)に《太初の混沌とした状態のときに太陽が二つあった》と記されている。そして遠く南米大陸に視線を移せば、『ボリビアの伝説』(エピック)に《父なる神ウィラコチャは暗闇に覆われている世界を残念に思い、高みから大地を照らすため二つの太陽を作った》とある。
 さらに中国の伝説には、何と10個の太陽が登場する。さすが「白髪三千丈」の御国柄。なんとも大盤振舞なこった。後漢代に編纂された『淮南子(えなんじ)』には、《堯の時になって、十個の太陽が並び出て、穀物を焼き、草木を枯らせ、そのために民は食べ物がなくなり》とある。たしかに太陽が10個もあっちゃ、この世は茹だるような酷暑となろう。こりゃあ、まさに灼熱地獄。熊谷市民もビックリだ!!
 さて、これらの「太陽複数存在」伝説が「伝播によって拡散したもの」か「単独で発生したもの」かは定かではないが、この伝説が事実に基づいているものだとしたら、かつて太陽は相方をもつ“連星”だったということになる。
 太陽を含む恒星は、水素の原子核が結合してヘリウムとなる“核融合”で光り輝いている。
 太陽が発する光には不思議な作用があるとされ、錬金術の世界では地上の金属を“金”に変えることが出来ると信じられていたという。けど、そんな安直に金が作れたら金の価値が大暴落してしまうのではないかと、ついつい余計な心配をしてしまうのだ。
 医師であり錬金術師でもあったパラケルススの言葉に、「炉の中の火は太陽にたとえることができる。その火は、太陽が広大な宇宙を熱するのとちょうど同じように、炉や容器を熱する」というものがある。こりゃまるで太陽を容器内に封じ込めたような書きっぷりじゃないか。炉の中で太陽が燃えている……つまり“核融合”がおこなわれている。錬金術師たちは核融合を知っていた。そう思えてならない。
 しかし、錬金術を「山師の世迷言」と侮ることなかれ。藤子・F・不二雄先生の短編に登場するカメラのセールスマン・ヨドバ氏も、「錬金術から近代科学へと発展した」と言っておられる。
 錬金術の歴史は非常に古く、紀元前1万年まで遡ることが出来るといわれているから、古代人が核融合を利用していたとしても何ら不思議ではない。「そんな馬鹿な!? 古代人は未開で知的レベルも低いではないか!!」と鼻息を荒くするは、現代人の根拠なき“思い上がり”ではなかろうか。そこに生命がある限り、「高度な文明は存在しなかった」と証明するのは甚だ困難なことなのだから。
 閑話休題。老生、「世界各地の太陽伝説で語られるその他大勢の太陽は、古代人が製造した“人工太陽”だった」と推理している。
 それに基づき、「太陽複数存在」伝説を講釈してみる。
 先ずは、中国の伝説に登場した10個の太陽のその後だが、10個のうち9個までが弓術の達人・羿(げい)によって射落とされたという。羿がどれほどの腕前だったかというと、古代中国の思想書『韓非子』では「彼が矢をつがえれば、異民族の越人でさえ喜んで標的を持った」と評している。敵対勢力からも信頼される腕前。つまり、デューク・東郷並みの凄腕スナイパーだったのだ。
 そんなゴル……いや、羿のところに全宇宙を統括する上帝から、「太陽たちを懲らしめてやりなさい」と水戸の御老公バリの司令が届く。そのとき羿が「報酬はスイス銀行に振り込んでもらおう」と言ったかは定かではないが、現地に赴いた羿は太陽を次々と射落としていった。
 それにしても、太陽を射落とす際、羿はどのような矢を用いたのだろうか? 太陽に向かって矢を放っても、熱線によって途中で焼き尽くされてしまうのではないか。イカロスの翼のように……。
 羿が10個目の太陽をロック・オンしたところで、上帝から「ストップ!」が掛かる。なぜなら上帝の本意は、あくまで抑止であって攻撃ではなかったからだ。それもそのはず、10個の太陽はいずれも上帝の子供だったのだ。古今東西、権力者は常に身内に甘いもの。羿は忖度の出来ない人物だったのじゃ。
 さてさて、古代人が核融合を知っていたとするなら、羿が射落とした9個の太陽とは核融合(=核兵器)を保有した国のように思えてくる。羿は先制攻撃で核保有国を壊滅させた……と。
 羿に射落とされた太陽は、地表に「沃焦(よくしょう)」と呼ばれる大穴を作ったとされる。これは、核兵器が地表付近で爆発した際に巨大なクレーターが作られることと共通する。つまり、羿が使用した矢は“核弾頭ミサイル”だったと推測できるのだ。
 太陽(=核保有国)への攻撃の中止を命じた上帝の真意は、「羿が核兵器を独占して世界を支配することを恐れたから」と邪推してしまうのだ。上帝には、ふたつの勢力の軍事バランスの均衡を図る「弥次郎兵衛の原理」が働いたと思えてならない。
 古代の地球には核保有国が複数存在していた。
 もしかしたら、太陽の熱で翼を溶かされ墜落死したイカロスは、太陽(=核保有国)の領空を侵犯したため撃墜されたのではないか。
 南米のティティカカ湖に“太陽の島”と呼ばれている島があり、ここから太陽が昇ったという伝説が語り継がれている。この伝説は、ティティカカ湖に設営された軍事施設から核ミサイルが発射されたことを物語っているような気がしてならない。
 また、死海沿岸にあったとされるソドムとゴモラは、住人たちの“不道徳”のために、空から降ってきた“火と硫黄”によって滅ぼされたと『旧約聖書』は記している。この滅亡譚で疑問に思うのは、「なぜ、空から降ってきた物が硫黄なのか」ということ。鉄でも銅でもいいではないか。老生は敬虔なる浄土宗信徒のため『聖書』に精通していないので、『聖書辞典』(いのちのことば社)を紐解いてみた。すると、硫黄とは《すべての燃える物質を示すようになった》と記されていた。この記載からは、炎を纏った物体が落下してくる光景がイメージされる。空からの燃える落下物といえば、隕石が思い浮かぶ。ソドムとゴモラは、隕石の衝突によって壊滅してしまったのだろうか。そう思うと、死海が巨大な隕石孔に見えてくるから不思議だ。
 古来より、「ソドムとゴモラは“核兵器”によって滅ぼされた」という説が流布されている。所謂、古代核戦争説だ。この説の根拠のひとつとして、『聖書』にあるロトの妻が“塩の柱”になった事件が挙げられている。破滅の直前、神の勧告に従い町を出たロトの家族だったが、妻だけが振り返ったためこの災厄に遭ったというのだ。巷間の「古代核戦争説」支持者は、「ロトの妻は核爆発が放つ強烈な熱線(1,000万度にも達するという)を浴びたため燃え尽きた=塩の柱になった」と主張している。たしかに錬金術でも、「塩」は燃え残った物を指している。なので、塩の柱になったとは“燃え尽きた”と解釈することも可能だ。
 そして、ソドムとゴモラが滅ぼされた原因である住人の“不道徳”とは、もしかしたら核兵器の保有だったのではないか。ソドムとゴモラは古代版“ならず者国家”だったと考えられないか。
 似たような話がある。
 それは、ギリシア神話に登場するゴルゴン三姉妹の話である。ゴルゴン三姉妹とは、『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』(原書房)によれば《頭部には蛇の髪の毛が生え、猪の牙、竜の鱗で覆われた首、青銅の手を持ち、その顔を見た者は石に変えられてしまった》という怪物三姉妹である。老生、彼女たちの顔を見た者は誰もが石になってしまうという話は、強烈な熱線を浴びて“炭化”したことを意味していると推測している。“塩の柱”となったロトの妻のように……。
 つまり、強烈な熱線を放つゴルゴン三姉妹は核融合の産物である“人工太陽”だったと思えるのだ。
 そう思うと、彼女たちのもつ蛇のような髪は太陽の表面から噴出される火柱“プロミネンス”に見えてくる。
 さらに、もともと美しい娘たちであった三姉妹が恐ろしい怪物となったのは、原子力が「クリーンなエネルギー」という謳い文句とは裏腹に取扱いの難しい厄介な代物(東日本大震災で経験済み)であることと酷似しているように思えてならない。
 さて、そんな三姉妹のうち唯一不死身ではないメドゥサは寝ているところをペルセウスに踏込まれ、首を斬られてしまう。それにしても、一番弱い者をイタブルとは何たる卑怯。武士の風上にも置けぬ悪漢(ヤツ)。しかも女子の寝込みを襲うとは、何たる破廉恥!! まるで往年の『スタードッキリ』のワンコーナーのようじゃないか。
 このメドュサの首を“斬る”という行為は、人工太陽(=核兵器)の封印を“解く”ことを意味していると思える。つまり、ペルセウスは「メドュサの首」という核兵器を手にしたのだ、と。
 メドゥサの首(=核兵器)を得たペルセウスは、さまざまなものを石化(=核攻撃)させてゆく。自分を冷遇(一夜の宿を貸さなかった)したアトラス、自分たちの婚礼の宴に乱入してきたピーネウス(実は新婦アンドロメダーの元婚約者)、そして自分の母親に淫らな行為をしようとしたポリュデクテス、と。そう、ペルセウスは自分の意に沿わぬ者を次々と石に変えていったのだ。その行動は、まさに「猿に剃刀」。核を持った独裁者だ。
 近頃、進化論に対し懐疑的になっている。
 例えば、麒麟の長い首について。
 麒麟の首が長い理由は、低い枝の葉っぱを食べる動物が多かったため争奪戦に破れた種類が高い枝の葉っぱを食べようと、世代を重ねる毎に徐々に首を伸ばしてゆき、現在のような長い首になったと、子供の頃から繰り返し聞かされてきた。
 だが、大人になって多少の知恵がついてくると、矢鱈と疑い深くなってくるから仕様がない。高い枝の葉っぱが食べたいからといって、果たして、その子孫の首がご先祖様の思惑通りニョキニョキと長くなるものだろうか、と。高枝切り鋏じゃあるまいし。現実問題として、そんな悠長に首が長くなるのを待っていられるものだろうか。“現時点”で葉っぱが食べられなかったら、総員餓死してしまうではないか。
 だからして、変異(=長い首)は多くの個体に一斉起こったと考える方が自然だ。しかも変異は生物の内的要因ではなく外的要因に起因すると、老生は推測している。
 では、その外的要因とは何だったのか?
 人類の退廃期である21世紀に入っても、世界各地で新種の生物が次々と発見・確認されている。それが不思議でならない。生物とはそんなに種類があるものなのか。もしかしたら、今この瞬間にも新しい種が創り出されているのかも知れない。
 これまで地球上では、生物の進化(変化)と絶滅が繰り返し起こってきた。何度も何度も……。「進化」とは何か。進化の要因とは何か。生物には自発的に身体を変化させる(=遺伝子を書換える)能力があるのだろうか……などと考え出すと、今夜も眠れなくなってしまう。
 生物の進化。そこに何者かの作為が感じられてならない。生物が地球規模に絶滅し多様に進化(変化)したのには、何者かが意図した核爆発とその後の残留放射能が影響しているのではないかと、老生は考えるのだ。
 我々は放射能の深い霧の中で暮らしている。
 「そんな馬鹿な!!」と言われるやも知れない。それは“安全”とする基準に誤りがあるからではないか。我々は、ふだん地球上の放射能の量は生体に影響しない程度だと思っている。否、思い込んでいる。
 しかし、その“思い込み”は地球に住む我々が勝手に信じているだけのことで、地球の外側からみたらそうでないかも知れない。
 昨今、放射性物質の漏洩事故が起こる度、放射能汚染の問題がいろいろと取り沙汰される。我々の健康が脅かされる、と。
 だが、その場合、放射能汚染の度合が「0」から「1」になったのではなく、実際は「10」が「11」になったのではないか。
 たび重なる核爆発後の残留放射能が地球上の生物に進化(=変化)を促しているとしたら、古代の地球は核戦争の舞台ではなく、地球外の何者か(敢えて「地球外知的生命体」とする)による核の“実験場”のように思えてくる。
 そして、その核実験の副産物として、環境を破壊し続けなければ生存できない地球史上最厄な生物ホモ・サピエンが産み出されてしまった。これは核実験を繰り返す地球外知的生命体にとって、まったくの想定外だったに違いない。そう、水爆実験の結果、ゴジラが誕生したように……。
 地球外知的生命体による核実験は現在も続いている。次の実験は地球人同士による世界規模の核戦争に違いない。地球人は自分たちの世界を何十回も焼き尽くすに余りある“太陽”を手に入れてしまったのだから……。
 つい、そんな想像をしてしまうのだった。


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