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ハートダイバー 一話目

 空は見事な五月晴れで、武道館の周囲は、燃えるような緑で覆われている。中に入ると、ステージをぐるりと囲んで八角形に客席が並び、天井には日本国旗が掲げられている。そして今まさに、夜に控えたライブの準備で、関係者が慌ただしく動いている。ここで歴代様々なアーティストが演奏してきたのかと思うと、ダイキは胸を躍らせる。
「いよいよだな。俺達今日、あのビートルズとか、カーペンターズとか、クイーンと同じステージで演奏するんだよな!? ルイ」
 ルイと呼ばれた男は美しい銀色の長い髪をわずかにゆらし、静かに答える。
「ああ。楽しみだね」
 ダイキは知っている。この湖の水面のような男が、ステージでは水を得た魚のようにキラキラと輝くことを──。
「お前と出会ったときのこと、思い出すよ」
「僕も、同じこと考えてた」
 ルイがふっと笑い、二人は顔を見合わせる。

 ダイキはアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、小学生の頃はよくいじめられた。
 居場所がなく、落ち込んでいる時、父はいつも音楽のライブに連れて行ってくれた。
「すごい」
 音楽が奏でる圧倒的な「生」のパワー。いじめられても、音楽を聴けば元気になれた。勇気が湧いた。その頃に買ってもらったギターを、ダイキは夢中で練習した。
 そして高校に入ったころだ。放課後、委員会で遅くなったダイキが一人、音楽室の前を通りがかった時、美しい歌声が耳に入った。
 細い糸をつむぐように繊細なのに、どこまでも遠くまで響いていくような──。
(女の子──?)
 思わず覗いて、男の制服に驚く。
 だがそれよりも、逆光で美しく輝く、銀髪のロングヘア―にダイキは釘付けになった。染めた髪色じゃない。父の金髪を見ている彼は直感する。
「お前も、ハーフ?」
「誰?」
 勝手に覗き見たことを咎めるような口調だった。だが、その目を見て、ダイキは確信する。
「それ、カラコンだろ? 黒の。俺もやってるから分かる。ほんとは何色?」
「──青」
「ってことはやっぱりハーフ!? で、音楽好き!? マジか! やった」
 真っ白い歯でニカッと笑い、まだ怪しんでいる男の手を、ダイキは勢いよく取る。
「俺、ダイキ・オリバー・スミス。アメリカ人のハーフ。そっちは?」
「……皇ルイ。フランス」
「なあルイ! 俺達でバンド組もうぜ!」
 それが始まりだった。あれから5年。今日はルイの誕生日でもあり、ダイキ達のバンド『Nicoichi』結成の日でもある。
 ダイキは思う。彼に出会っていなければ、自分はここまで音楽にのめり込まなかっただろうと。
「リハーサルお願いしまーす!」
 ステージに立ち、本番さながらの、最初で最後のリハーサルが始まる。ルイがマイクを握り、息を吸う。
 〝♪!!〟
「きゃー! ルイー!」
「ダイキー! こっち向いてー!」
 あっという間にライブスタート。お客さんが入った熱気と興奮の渦は、リハとは段違いだ。まずはアップテンポな曲で、お客さんと一体になる。
「〝ニコイチの君と僕〟」
 二人の代表作の一つだ。初めて二人で作った曲でもある。作詞がルイで作曲がダイキ。ルイにメロディーを何度もダメ出しされたことを、つい先日のように思い出す。
(なに?)
 ふっと吹き出すダイキに、ルイが歌いながら目配せする。
(思い出してた)
 ちょうどダメ出しされていたサビの部分だ。それが伝わったのか、ルイもまた笑顔になる。
「〝さあ、笑って、僕が君の半分を埋めるから。さあ、一つになろう! ニコニコ ニコイチの君と僕!〟」
 二人で一つ。その想いを込めて左肩から二の腕にかけて掘ったハートの欠片。その半分同士が、間奏のギターソロで背中合わせになった時、ルイの右肩のソレと一つになる。
「キャー!」
「最高!」
文化祭に向けて作った曲だった。大変だったことよりも、ルイと一つの目標に向かって走ったことが、楽しくて、楽しくて、当日、盛り上がった時は感動した。
(それが今や、武道館!)
 ダイキは会場を見渡す。隅々まで笑顔と音が届くように──。

 だが、終盤で事件は起こる。
 ルイが美しい汗を流しながら、一呼吸つく。
「名残惜しいですが、残り二曲となりました」
「やだー」
「まだ一緒にいたいー」
「聞いてください。〝愛の証明〟」


この世に愛があると証明してよ
できないなら、いっそ、殺してくれ

誰にでも明日がくると言うけれど
それが誰にとっても希望とは限らない

平穏無事な今日が長く続けばいい

明日なんて来なければいい
心がすり減るだけだ

一人夜のしじまに身を預けていたい
苦しいだけの明日から逃れる方法はないのか

今すぐ
この世に愛があると証明してよ
できないなら、いっそ殺してくれ

明日がなければ
孤独を感じることもない
朝日に身を焼かれることもない

優しい夜に抱かれていたい

勇気も希望も
今の僕には
ただ馬鹿馬鹿しいだけ

頼むから
この世に愛があると証明してよ
できないなら、もう死んでしまおうか

このまま、この夜に身を溶かして
永遠の眠りに

 ルイが最後のフレーズとともに、短剣を胸に突き刺す。
「え……」
 ダイキも会場もどよめく。
 それは単に演出の一つに過ぎないはずだった。
 だがステージを濡らしていく血は、まさかホンモノじゃないのか──。
「ル……」
「ぐっ……ぅううっ!」
「どけっ!」
 顔面蒼白のダイキを押しのけ、明らかに関係者でない男がステージに乱入し、ルイに駆け寄る。
「まだ息はある。表に車まわして、担架を早く!」
 それはダイキにではなく、無線の相手にだ。男は、矢継ぎ早に指示を出す。
「た、んか? うそ、だろっなんで……──」
 ダイキは自分の足元に広がっていく赤を見てさらに血の気が引く。
「俺は自殺防止委員会の愛崎だ。生配信のライブ映像から、極度のうつ状態が検知されたため、急行した」
 警察手帳のようにひらりと身分を提示し、男はルイの腹部を圧迫する。
「じ……さつ……?? 嘘だっ、そんな──なんで今っ!? ここで!?」
「落ち着けっとにかくライブは中──」

「きゃーーーーーーー!」

 悲鳴が聞こえ、そこに視線が集まる。
 ダイキは目を見開く。男も、それを見て青ざめる。
 最前列で、手首をカッターで切り付けているファンの姿があった。
「まさか……集団自殺を計画していたのか?……この規模で、一体何人のファンと事前にやり取りを──?」
 よく見れば、最前列だけじゃない。ずっと後ろの席も、真ん中あたり、二階席にも──

〝約束通り死ねる。私も、一緒に──〟

 阿鼻叫喚とはこのことだ。あちこちで悲鳴が上がり、血が流れ、会場はパニックになり、またたくまにライブは中止になった。
 ファンの一人が立ち上がり、ステージに向かって叫ぶ。
「今日のライブ、すごく楽しみにしてた……この日のために仕事頑張って、苦手な飛行機乗って、いっぱいグッズ買うんだって……なのに、どうしてっ……どうしてよっ!!」
 救急車が到着し、ファンが次々と運ばれていく中、ダイキは、動けなかった──。

 ルイは奇跡的に一命をとりとめ、病院の個室で眠っている。麻酔が切れれば、目を覚ますらしい。ダイキは真っ暗な病室で、ルイの顔をただ見つめている。そこへ先ほどの男が缶コーヒーを手に入ってくる。
「ひどい顔だな。大丈夫か?」
「さっきの……え、と」
「自殺防止委員会のダイバー、愛崎だ」
 改めて男が自己紹介をする。暗がりでも光る鋭い眼光、伸びっぱなしの黒髪は肩まであり、無精ひげもそのままだ。だが不思議と清潔感があり、仕事に生きていると感じさせる男だとダイキは感じた。
「飲むか?」
 自身もブラックを飲みつつ、ダイキにも差し出す。両手で受け取ると、その冷たさに、ようやく現実感覚が戻ってくる。
「あの……ダイバーの仕事って、自殺したい気持ちを消してくれるんですよね」
「ああ。一時な」
「じゃあ、もうルイは」
 そう聞くと愛崎はゆるく首をふる。
「術後だぞ? 体力が戻ってからやる予定だ。だが、目が覚めたらまた自殺する可能性もあるんでな。見張ってる」
「そう……ですか……」
 ダイキは肩を落として、改めてルイの寝顔を眺める。
「ルイは、高校からの、親友なんです……卒業して、一緒に暮らして。デビューして、ようやくトップアーティストの仲間入りを果たせると思ったのにっ。俺、全然分からないんです。どうして、今日、自殺しようとしたのか……どうしてっ、なんでっ!」
 ダイキは涙声で肩を震わせる。その肩に愛崎はそっと手を置く。
「生きてんだ。目が覚めたら、いくらでも聞けばいい」
「……はい……」
 涙をふいてもう一度ルイを見ると、目を開け、ぼんやりと天井を見ている。
「ルイッ! わかる!? 俺だよ! ダイ──」
 だがダイキはふたたび混乱する。ルイが点滴の針を抜き、自分を羽交い絞めにして、それを目に突き刺そうとしたからだ。
「そいつを離せっ! 親友だろっ!」
「ルイ!? うそだろ!? なんで」
 だがルイは月明かりを背にして、ほくそ笑む。
「俺はまたやる。たくさんの人を解放してあげる。お前に止められるか? ダイキ」
(────!?)
ルイは窓の方に後ずさり、勢いよくダイキを蹴り飛ばして、月明かりに身を投げる。
「おいっ! まっ──」
「ルイ!?」
 飛び降りたルイを追って二人が窓の下を見ると、黒いファミリーカーが現れ、あっという間にルイを連れ去っていってしまった。
「おい! 逃げたぞ! くそっ暗くてナンバーがっ──」
 慌ただしくなる中、ダイキは呆然とその場にしゃがみ込んだ。

〝神聖な武道館ライブ中に集団自殺〟
 それは、前代未聞の集団自殺だった。
 事前にルイとファンとの間で、このタイミングで一緒に旅立とうという趣旨のやりとりがされていたようだ。
 生配信を見ながら自宅で練炭自殺するファン、飛び降りるファン、最前列でリストカットするファン──亡くなったファンは十五人にのぼり、自殺未遂も含めれば、二十人以上となった。言葉では言い表せないほど、痛ましい事件として連日ニュースで取り上げられた。
〝Nicoichiオワコン。ファン道連れ〟
 神聖な武道館を汚した世間からの批判は大きく、『Nicoichi』は解散を余儀なくされ、ダイキは音楽業界を追放された。
 ルイはあれから行方不明のままで、警察が行方を追っている。見つかれば、逮捕され、自殺ほう助の罪に問われるという。
「じさつ……ゆくえふめい、たいほ……なんなんだっ! ほんとになんなんだよっ!」
 ダイキはルイと一緒に暮らしていた家に戻り、悶々とする日々を過ごしている。
 2DKのこじんまりしたマンションだ。ふいに思い立ち、ルイの部屋をのぞいてみると、歌詞を殴り書きしたコピー用紙がいくつも散らばっていた。普段は綺麗好きだが、ライブ前は音楽で埋もれたような部屋になる。それを見て、微笑んだルイの顔が浮かぶ。
「な、んでっ」
 ふいに涙が溢れて止まらなくなる。
「確かに俺もお前もいじめられてきたし、ツライこといろいろあったけどっ」
 ハーフという共通点。いじめられた過去はルイも同じだった。
 でも音楽を通して、友達ができ、応援してくれるファンができた。そのファンを、ルイは道連れにしたのだ。
「サイテーだよっ! ルイッ! なあ! 今どこにいんだよっ!」
 壁を殴り、部屋中のものに当たり散らす。だが、何よりも大切にしていた音楽機材、ギター、ルイの書いた歌詞──すべて叩き壊して、破いて、めちゃくちゃにしたいのに、それらを無下に扱うことはできなかった。
「くそおっ!」
 壁に穴をあけ、己の不甲斐なさに全身を震わせる。
(あの時、俺は何もできなかった。動けなかった。ファンが死んでいくのに、駆け寄ることさえできなかったっ! ルイの目が覚めた時だって──!)
 後悔や無念が押し寄せ、拳を握って唇を噛む。
〝俺はまたやる。たくさんの人を解放してあげる。お前に止められるか? ダイキ〟
 ルイが去り際に残した言葉──それが本当なら、また、たくさんの人を道連れにするつもりだ──だとしたら──。
(止めなきゃ。でもどうすれば──)
 思い至り、携帯で〝ダイバー 募集〟と検索する。
「あった……」
 来月の一般公募で、若干名募集とある。
 ダイキは、さっそく、履歴書を用意するためにコンビニへ走る。
(ルイっ! 俺が絶対止めるっ!)

 ダイバー本部は青いガラスで覆われた近未来的な建物だ。ビル内は六角形の自動ドアで仕切られ、カードキーがないと左右に開かないようになっている。
 その一部屋で、ダイバーの面接が行われている。
「人を助けたいと思いまして。昔からよく人に相談される性格で──」
 目を輝かせる応募者を前に、愛崎はボールペンの尻で頭をかく。
「この仕事は感謝されない。それどころか、死ぬのを邪魔するなと殺しにくる輩も多い。怪我は日常茶飯事。最悪、殺されることも──それでも、志望しますか?」
「え……と……」
 言い淀む応募者の履歴書に不合格のチェックを入れ、愛崎は次の応募者を呼ぶ。
「ボランティアで感謝されて──そこから人の役に立つ仕事につきたくて」
「……助けられない場合も多いですよ。目の前で死んだら……耐えられますか?」
「そ、うなんですね……」
 不合格、不合格、不合格──。
 件の武道館の事件のおかげか、応募者は百を超えていたのに、性格診断と面談で、そのほとんどが落ちていく。
(同情心は仇になるからな……)
 理性的か、自殺なんて理解できない単細胞がいいと愛崎は思う。だが、人助けをしたい人間が集まりやすく、なかなか求めている人材とマッチしない。
 キラキラとやる気に満ちている奴は、ほとんど現実を知ってやめていく。だから雇わない。
(今回も不作かもな──)
 そう思いながら、次の人を呼ぶ。
(これで最後か……)
「ダイキ・オリバー・スミスです。よろしくお願いいたします」
 愛崎は一瞬誰だか分からなかった。ド派手なグリーンとピンクだった頭は黒髪になり、スーツを着ているせいもあるだろう。だがそれよりも、ダイキは痩せ、ライブで会ったときとはまるで別人のような悲壮感を漂わせているのだ。
「まさかと思ったが……音楽はどうした」
 そう聞くと、ダイキはゆるく首をふる。
「あんなことがあったので、もう──」
「そうか。なぜ志望を?」
 ダイキは落ち窪んだ目で前を見る。だが、その奥の光は消えていない。
「……俺達は、ファンに支えられてここまで来ました。説明する義務があります。なぜ、こんなことになってしまったのか──ルイはまたやると言ったんです。あいつを止めて、そして、二人でファンに謝罪して、俺達の音楽を取り戻したいんですっ!」
 愛崎はダイキを見据え、納得したように目を閉じる。
「わかった。一週間の研修の後、テストダイブで適性をみたい。採用するかどうかは、それからだ」

 一週間後。ダイバービルの一階の一室に、ダイキと愛崎はいた。カプセル型のベッドが三つ並んでいる。その真ん中には、すでに患者が麻酔で眠っていて、頭には、ヘルメット型の器具を装着している。愛崎が経緯を説明する。
「中学でいじめにあったらしい。自室で首を吊っているところを母親が気づいて通報した。容体が安定したから、ダイブに入る」
 患者と同じヘルメットを、愛崎がダイキに差し出す。
「じゃ、まずはこれをかぶって麻酔を吸ってもらう。意識レベルが落ちていき、脳波で繋がると、患者の心の中にダイブすることができる」
 ダイキは眠るように落ちていく感覚がして、気づいたら、湖の中にいた。(これが、人の意識の中?──不思議だ。水の中にいるみたいなのに、呼吸ができる)
「無事に入れたようだな」
 みまわすと、同じ空間に愛崎がいた。
「プールでのVR研修より、もっと現実感がないだろう? 同じ夢を見ているような感覚に近いかもしれないが、これは現実で、いわゆる意識だけの状態だ。今ここは顕在意識だから居心地は悪くない。問題はこの下。潜在意識だ。そこにいるトラウマのバケモノを倒せば、ダイバーとして採用しよう」   
 説明を受けながら、より濃い層を抜けると一気に身体が重くなる。
(なんだこれっ! 腐った水みたいな匂いと、重力で吐きそうだっ!)
 口を押さえるダイキのすぐ隣を、巨大なバケモノが通り過ぎていき、あやうく声を上げそうになる。
(これがっトラウマのバケモノっ!?)
 よく見れば、それは下半身を模したような形をしていて、血を流し、赤くかぶれ、膿み、〝グロテスク〟という表現がぴったりだ。そこに口がたくさんついているのだから、なお気味が悪い。
 不安になり、愛崎を目で探すと、銃を構え、発砲するところだ。
「よく見とけ」
「ぎええええええええええええ!」
 着弾すると爆発し、そのバケモノの身体を抉っていく。その中に黒く光るものが見えた。
「あれがトラウマの核だ。あれを破壊しろ! 俺が隙を作るから、その間にやれ」
「はいっ」
 研修で習った。武器はイメージして作る。ダイキは片目が見えにくいため、銃は不利だ。左肩に手のひらを当て、その棘のハートの入れ墨が、自分の拳を覆うイメージをする。
「さっきも言ったが、ここは意識の世界だ。心の強さがモノを言う。気をしっかり持て」
 ダイキが頷くと同時に、たくさんの口がかみ殺そうと襲ってくる。それをなんとかよけながら、露出した核を目指す。
「死なせてええ! ツライよおお」
「! ダイキッ! よけろ!」
「!?」
 核まであと少しというところで、バケモノが急にスピードアップし、愛崎の放った銃弾を避け、ダイキの左足に噛みつく。
「うああっ!」
「くそっ! 意識を保て! 相手のトラウマが流れ込んでくるぞ!」
 だがダイキは白目をむき、昏倒する。


「ぬーげ! ぬーげ! ちんこついてんのかよっ! 見せろ見せろ! あ! こいつ毛が生えてる」
 地獄とはこのことかと思った。夏休みの自由研究だと称して、僕は毎日下半身の写真をとられ、何本毛が生えているのか、ちくいちチェックされていた。
「痛いっ!」
「抜いてやってんだ! 黙ってろ!」
 生えている毛をひっぱられ、抜かれる。僕は毎日毎日下半身を洗い続けるようになり、そこは真っ赤にかぶれはじめた。
 最初僕は、転校してきたこの子を、守ろうとしていた。貧乏で汚れているからと、いじめられていたから、守ろうとしたんだ。なのに──
「うぜえんだよっ!」
 その子が僕をいじめるようになった。どうしてなのか、いまだにわからない。
 ある日、その写真を、僕の携帯から、好きな子にLINEで送信されてしまった。
「見ろ! 既読になった! ギャハハハハッ!」
 家に帰るとその子の両親が、うちに怒鳴り込んできた。事情のわからないお母さんが、とにかく謝っていて、どういうことなのかと、僕を責め立てた。
「どうしてこんな写真送ったのっ!? あなた一体なに考えてるのっ」
 うまく説明できなかった。ただただ、誰も味方はいないんだと痛感した。唯一、僕に微笑んでくれたあの子も、この写真で幻滅しただろう──。
 僕はもう、死にます。ごめんなさい。


「ごめんなさいっ。死ぬから、許してくださいっごめんなさいっごめんなさいっ!」
 ダイキはガタガタとふるえ、怯えていた。
「しっかりしろ! それはお前のトラウマじゃないっ! ダイキッ!」
 愛崎からの呼びかけに、ダイキは我に返る。トラウマのバケモノは遠くにいて、愛崎に助けられ、いったん、避難しているのだとようやく理解する。
「あい……ざきさん? 俺……」
「モロに喰らったな。大丈夫か?」
 ダイキは一点を見つめたまま、ぼんやりと答える。
「はい……愛崎さん……俺、思い出しました」
「思い出した? なにを──っておい!」
 ダイキは再び、トラウマのバケモノに突っ込んでいく。
「ッツ!」
噛みつかれる度に、彼のトラウマが流れ込んでくる。だが、ダイキは拳を振り回し、核めがけて一直線に進んでいく。
「ったく無茶苦茶だな。普通はあれだけモロに喰らったら、身体が恐怖で動けなくなるってのに、イカレてるぜ」
「うおおおおッ!」
攻撃される度に、自分がバラバラになるような感覚──だが、ダイキはそれになつかしさすら覚えていた。
(そうだよ、忘れてた。俺も死にたかったんだよ。マジックペン目に突っ込まれて、痛くてたまらないのに、まわりはみんな笑ってて──)
 その後遺症で、ダイキの左目は視力が悪い。
 核まであと少し。だがバケモノも必死だ。攻撃が一層重くなってくる。
「次は逃がさねえぞっ! 核!」
 露出した核は愛崎にも見えている。それは硬くトゲがあり、両手で握れるサイズの、ウニのような見た目をしている。ダイキは攻撃を受けながら突っ込んでいき、思いっきり叩く。
「────ぐッ!! ア゛ァッ!」
 核を破壊されまいと、バケモノの口がいっせいに噛みついてくる。全身を針で刺されたような痛みがダイキを襲う。
「もう十分だっ! あとは任せろ! それじゃ、お前の心が先に壊れるぞ!」
 だが、ダイキは決して殴る手を休めない。
「なんて精神力してやがるっ……」
(聞こえたんだ。さっき、確かに──)

〝助けて──!〟

「ほんとは生きたいんだろっ! お前の苦しみ、俺も味わってやるっ! そしたらもう、一人じゃないだろっ!」
 ダイキは殴るのをやめ、両手で掴んで抱き締める。無我夢中で。助けたい一心で──。
「ぐ、ぅ゛あああああああ!」
 それは熱した油の中に手を突っ込むような痛みだ。愛崎は青ざめる。
(壊すんじゃなく、すべて受け止める気か──!?)
 それこそ自殺行為だ。
「さすがにそれは無茶だ。今度はお前がそのトラウマに苦しむぞっ!」
 だがダイキはあきらめない。流れ込んでくる心の痛みを全身に受けながら、本人に語り掛ける。
「俺には音楽があった、友達がいたっ、お前には何かないのか!? このトゲトゲになった心の中に、ほんとに何もないのかよっ!?」
 ダイキの体がトラウマに浸食され、黒く朽ちていく。見ていられなくなった愛崎が、助けに入ろうとしたときだ。
 トラウマのバケモノが光に包まれ、ぱあっと輝き出す。
「まさか、見つけたのか?〝希望〟を──!?」
 光に包まれ、バケモノがいなくなる。その瞬間、濁っていた潜在意識が、澄んだ水に変わる。その中心に、ボロボロのダイキが浮いていた。
「大丈夫かっ!?」
「へへ。〝好きな子に誤解されたまま死にたくないって〟」
「そうか。よくやった──と言いたいところだが、あとで説教だ」
「ええ~!??」
 砂粒のような希望を見つけるのは至難の業だ。大抵は、まるごと破壊し、いったんフラットな気持ちに戻す。トラウマに苦しむこともなければ、何がしたかったのかも、思い出すのに時間がかかるが──。
 だが希望を見つけて拾い上げれば、それが生きる糧になる。トラウマを跳ね返し、前に進むことができる。
(あの絶望と痛みの塊を、まるごと抱きしめようなんてバカはそういない。だが、こんなやり方は続かない。いずれ、トラウマのバケモノに飲み込まれてしまう)
 愛崎は悩む。彼を、ダイバーにするかどうか──。

 男の子が目を覚ましたそこは、一般病棟だ。ダイバー本部に隣接している総合病院でもある。
「おかあ、さん?」
 男の子が声をかけると、母親は泣き崩れ、息子を抱きしめる。
「ごめんっごめんね! 気づかなくてっ! ダイバーの人が助けてくれたのよっ!」
「うん。なんかね、心の中があったかかった」
 母親のぬくもりを感じていると、後ろから、見覚えのある女の子が遠慮がちにあらわれる。
「あ……」
「私がパパとママに言ったせいで……ごめんなさいっ。びっくりして、つい……」
 涙を浮かべて、あやまる女の子に、男の子は微笑む。
「ううん……僕の方こそ、変な写真送ってごめん。実は、いじめにあっててさ。僕の意志じゃないんだ。それだけは、伝えたくて」
「うん。わかってるっ」
 その会話を病室の外で愛崎とダイキが聞き、そっとその場を離れ、院外に出る。外は秋風が吹きはじめている。
「よかった……あの子、生きてて──」
 ほっとするダイキを尻目に、愛崎は緊張感のある表情を崩さない。
「ダイキ。お前がトラウマを一緒に引き受け、希望を見つけたから、あの子の回復は早かった」
 ダイキは褒められたのかと思い、一瞬顔を明るくする。
「だが、そのやり方は危険だ。二度としないと約束するなら、ダイバーとして迎え入れる」
「!」
「約束できるか?」
 愛崎の目は真剣だ。ダイキはかなりまずいことをやったと自覚しつつ、半分は納得できていない。だがここで、ごちゃごちゃ言えば、ダイバーへの道は断たれてしまうだろう。
「はい! よろしくお願いします」
 試験は合格だ。二人はいったんここで別れる。その背中を見送りつつ、ダイキはルイへ思いを馳せ、決意を新たにする。
(ルイ。次は絶対、俺が止める──!)

つづく。

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