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【書評】世界の果てを目指す物語(森見登美彦・「ペンギン・ハイウェイ」)

※森見登美彦「ペンギン・ハイウェイ」(角川書店・2010年)の書評です。

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これは、世界の果てを目指す物語だ。

日本SF大賞の本作だが、読んだ人は、果たしてSFなのかと首を傾げることだろう。そもそもSFに疎い私でも、異色の作品であることは理解できる。

主人公アオヤマ君の住む郊外の街に突如現れたペンギン。何も食べなくても平気、車にはねられても無傷、街を離れると消えてしまうなど、どうやら普通の動物ではないらしい。

そして時を同じくして、街外れの森を抜けた草原に出現した、〈海〉のような奇妙な球体。

行きつけの歯科医院の「お姉さん」がペンギンを出現させる能力を持っていることを知ったアオヤマ君は、小学4年生とは思えない持ち前の学究的姿勢をフル活用してクラスメイトたちと謎の解明に挑む。

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上のように設定だけを並べるならば、SFと言えないこともないだろう。

しかし、郊外の街に起こった一連の不思議な現象は、アオヤマ君と「お姉さん」の活躍によって、世間が納得するだけの説明のないままに終息する。

世界の破れ目※である<海>も、破れ目を消滅させて世界を修復する「ペンギン」も、ペンギンを食べてしまう「ジャバウォック」も、事態としては終息したものの、なぜ生まれたのか、なぜその形を取ったのか、物語世界の中ですらリアリティを伴う説明はなされない。

そもそも<海>が世界の破れ目であるという説もあくまでアオヤマ君の仮説であって、検証されていない。

未知の「ペンギン・エネルギー」でペンギンやジャバウォックを生みだすことのできる「お姉さん」もどうやら人間ではないらしいのだが、それにしては生まれ育った海辺の街の記憶も、両親や子どもの頃の記憶も持ちあわせていることは謎のままに終わり、アオヤマ君は「お姉さん」と決定的に離別してしまう。

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子供であろうと大人であろうと、自分の世界が広がっていくということは、面白さや楽しさばかりでない。否応なくそこに横たわる理不尽な壁にぶつかることでもある。

すべての現象が終息したあと、アオヤマ君の父親は、アオヤマ君に「かなしいことでもある」と知りながらも「みんな世界の果てを見なくてはならない」と説く。世界の果て、すなわち「理不尽だと思うこと」をみんな見ようとする。だからみんな泣くのだと。

作者の森見登美彦氏はこの本を執筆したきっかけについて、「自分が子どものときから思春期にかけての時期をすごした世界、そこで自分が妄想してきたことを小説のかたちにしてみたいと思っていた」と述べている。
※Web媒体「hakoniwa」におけるインタビューより

森見氏の子供時代の感慨を描き出すことを通じて、きっと世界を広げることについて回るある種の”かなしみ”を伝えたかったのではないかと思う。

この本を読むと、自宅マンションの窓から景色を眺めて、視界の果てに見える場所は一体どんなところなのだろうと夢想した子供時代のことを思い出す。

いつかそこに行ってみたい、と思う気持ちと、そこに至る不安のような気持ちとないまぜになった感慨をいつも抱いていた。

それでも、みんな世界の果てをめざす。その心こそ、すべてのSFに通じる道なのかもしれない。

アオヤマ君が「お姉さん」と会うことは二度とないかもしれない。それでも、アオヤマ君が彼女の謎を解こうと世界の果てに挑み続ける限り、もしかしたら、きっと。

京都で腐れ大学生やタヌキや天狗がわちゃわちゃする森見ワールドとは一風変わったSF。刊行から10年を経ても、その主題と描写の瑞々しさは色褪せていない。

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ここまでお読みくださりありがとうございました!

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