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夢を持て、夢が無いなら、夢を待て

ネットが普及し、他人の意見に簡単に触れることができるようになったこの時代、自分の気持ち"だけ"を見つめることは難しい。

自分の気持ちだけを見つめることは、自分の人生に責任を持つことであり、自分に愛を注ぐことである。


自分ひとりの意志で何かを信じ、それに向かって突き進む。その過程で失敗もする。

しかし、その失敗は、損ではなく、利である。

信じ、失敗し、学ぶ。そうして自分の駒を進める。

それが信じること、生きること、進むことである。

欅坂46のサイレンマジョリティでは

夢を見ることは時には孤独にもなるよ

とある。

生きるとは、孤独だ。

友達や家族など、大切な人がいるだろう。しかし大切な人はそれぞれの人生を生き、君は君の人生を生きるしか無い。


揺れる人間、芯がない人間は、コロナがおさまらないことを、いいことに思う。

「よし、これからも続け」と。それは、進まない自分と、進む他人を見比べ、進まない自分を正当化させたいからだ。


現状を維持し、進むことを恐れる性格。


自分を信じれていない人間は、人を祝福できない。

信じれているとは、満足しているということであり、それが、人間の価値観において、良いことと悪いことを決める境界である。


人のせいにすることは、意味を成さず、自分の可能性を諦めることになる。

人のせいにすることで、「自分ではどうしようも無い。諦めよう。僕ではない他の誰かが悪いんだ。」と物事を治めることができる。

失敗は人のせいではないし、君が頑張れば、その失敗を巻き返すことができる。

おそらく、不可能はないよ。君の意思次第だ。君が歩けば足跡はつくし、石も削れる。

人を疑うことは、自分を信じることができていないということか。

人を疑うことは、自分から目を背け、逃げるための準備だ。



私は、セレンディピティという言葉が大好きだ。

大学の授業で知った言葉だが、それは、偶発的な発見という意味らしい。

偶発的な発見。そこから生まれる価値。自分の存在価値。自分で成し得た社会貢献。幸せの欠片。


夢を見つけるため。

私がセレンディピティを好きなのは、私の意識の外で、私自身が夢を見つけたいと思っているからなのではないか。

私のセレンディピティ志向はそこから来ているのか。



夢が見つからない若者よ。楽しく生きろ。セレンディピティを信じて。楽しさの上にある出会いが、君を救う。

大人の人は、是非、子供に"不可能性"を感じさせないようにして欲しい。もちろん、自分を第一に考えて。


私は、酒と夢と愛情を信じたい。


(西加奈子著 「サラバ!」を読んで)

P.S.西加奈子さん凄すぎる、、、

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