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もうちょっと苦しもう

彼女が欲しい。というか、生物と同棲したい。生物ならではの変化を見て感じて、時には相手のニーズに応える活動をしたい。相手の息づく瞬間を眺め、今を感じ、ただ息をして、過ぎ行く今を尊びたい、人生に愛をもたらしたい。

しかし、そんな対象ができない。自分一人でも問題なく生活ができる。
(あ、でも最近植物と暮らし始めた。ハクチョウギさんとナギさん。)


一人でも問題なく生活ができる。仕事を初め、朝起きて、ご飯を食べて、洗濯物を干す、歯を磨き、スーツを着る。ラジオを再生し、通勤電車に乗り込み、職場へと行く。18時に退社し帰宅電車に戻り、駅前で割引になった弁当を買い、帰宅、風呂、夕飯、映画、就寝。

楽しさはじわり感じる。でも、時々感じる。静かな部屋で開けた窓から入って来るザーザーな街の音を聞き、ヨギボに沈み、一息二息つき、スマホにも一通り飽きたとき、思うのだ。さて、どうしよう?と。


人間関係にも必然性が備わっているのだと思う。人は必要な時に必要な人に会う。困っている人には助っ人が現れる。幸福な人の周りにはそれによって摩耗した人がいる。

ならば、その必然性を作ろうと思う。必要な時を作り、人の必要性を生み出す。そのためには、もうちょっと苦しむ必要があると思った。
「きつい、助けてほしい」と思っていれば、少なくとも今よりは必要性が増えていそう。苦労していれば、他人の苦労に心底から共感することができ、優しくなれて、対人交流の振舞いも優しくなるだろう。
引っ越したばかりで不安にまみれて居た頃、ずいぶんと人懐っこくなったことを覚えている。猫を被る余裕もないほど追い込まれている時に、周囲に張った壁を取り去ることができる。

小さな幸せに気付けるのは、それと同じくらいの弱小に突入した時なんだろう。


もうちょっと苦しもう、安定から外れよう、平常を打ち崩そう。
ぬるま湯から出るのはすごく大変だ、主体的に抜け出すのは不可能に近い。
他人との契約で退路を断つのだ。自分が成長できるような茨の道を見つけて。最初はごく小さな一歩で、たまには仲間と切磋琢磨し、また進む。

そう進んでいるうちに、同棲という状態が訪れると思う。


さあ、理論は立てた。どう実践する?実践できる?どうする?この選択も自分次第だよな。

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