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谷川俊太郎さんの詩「うそとほんと」にみる、人間の本質

先日、中学生の息子の教科書をふと手に取ってみたとき、目に止まったのが谷川俊太郎さんの「詩」だった。自分も当然学生時代には色々な「詩」を国語の授業で学んだことがあったが、正直当時は「詩」が何を表現せんとしているのか、あまりピンときていなかった。

しかし、大人になったいま、なぜかふと目にした「詩」がとても味わい深いものに感じられた。理由はわからない。簡素な構成でありながら、ときとしてリズミカルな文調、想像を掻き立てる文体、そういった「詩」のもつ独特の世界からもたらされる読後感はとても一言で表現できるものではないのだが、あきらかに幼少期に感じたものとは異なっていた。

そんな僕が息子の宿題に便乗するかたちで、谷川俊太郎さんが1971年に発表した詩「うそとほんと」をあらためて読む機会を得たのだが、今日はそこにとても深い学びと味わいがあったので書き記しておこうと思う。


うそとほんと

谷川俊太郎

うそはほんとによく似てる
ほんとはうそによく似てる
うそとほんとは
双生児

うそはほんととよくまざる
ほんとはうそとよくまざる
うそとほんとは
化合物

うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ



まず、文体。

これが非常にシンプルでわかりやすい。リズミカルで子供でも大人でもほぼ違和感なくさらりと読めてしまう。とても親しみやすい文体で仕上げられている。難しいことを難しく解説することは比較的容易いが、シンプルであることは意外に難しい。

そして、内容。

本来、嘘はいけないことで、本当が正しいこと。というのが常識であり世間一般の認識。これは誰しもが幼いころから教わってきていることであろう。

しかし、この詩においては、タイトルから「うそとほんと」となっているように、うそが先にきている。またうそとほんとは双生児のように似ているもの、かつ化合物のほうによく混ざるものであると表現されている。表と裏、表裏一体、いやそれ以上に混じりあっているものだという指摘が冒頭から中盤でなされている。

ここが極めて興味深い。一体どういうことなのか。

僕はここに常識の枠ぐみを超えた、人間の本質を感じた。

例えば、嘘を言っているとき。そこでは心の内の全てが嘘であるのか?いや、きっと違う。きっと感情だけは本心だろう。人間の感情はいつも本当である。子供の嘘はとくにそう。たとえ表出する言葉が嘘であっても、そうしたいと思った根本にある感情はきっと紛れもなく心からの本当。そんな子供は大人になるにしたがって色々な術を身に付け、自分の感情をごまかすことが上手くなる。つまり嘘がどんどん上手くなっていく。まさに混じりあっていくのだ。


うそのなかにうそを探すな。
ほんとのなかにほんとを探すな。

まさにである。うそのなかのうそはそれ以上でもそれ以下でもない。
ほんとのなかのほんとも、それ以上でもそれ以下でもない。

うそはうそであり、ほんとはほんとなのだ。


一方、本当に重要なのは、

ほんとのなかにうそを探すこと。
うそのなかにほんとを探すこと。


例えば、
真実だと思わせながら巧妙に嘘を盛り込んでくるマスメディア。
どこまでが本当なのかわからない政治家の発するメッセージ。
犯罪者や容疑者はその発言全てが嘘なのか。


世の中に蔓延する一見して「ほんと」にみえることのなかには「うそ」が混じりあっていて、「うそ」にみえることのなかにも実は「ほんと」が混じりあっている。これが人間であり社会の本質なんだと思う。


この「詩」が書かれたのは約50年前。現代ほどにマスメディアもソーシャルメディアも発達していなかった時代であるが、このようにとても平易な文体とリズミカルな文調で、大人から子供に至るまで、人間の本質をひろく世の中に訴えんとされた谷川俊太郎さんがみていた当時の社会、そして人間の本質は、たとえ時代が変われどもなんら変化することはなかったといえる。

そしてきっとこれからも変わらないだろう。

こうした50年前からのメッセージを受け取った我々が出来ることは、ほんとが正しく、うそは間違い、という二元論ではなく、その混じりあった両者をもち併せているのが人間という存在でありその集合体が社会なのだという認識のもと、皆が自らの意思で真実を見極める意識をもち、この世の中をしなやかに生きていくこと、なのではないかと感じた。


大人になってから向き合う「詩」は多くの学びをもたらしてくれる。そして、その学びであり味わいはおそらく人生経験によっても変化しえるのだろう。

深い。そして面白い。






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