「もう夫のための料理はしない」と決めた私は
2023年7月17日(月・祝)🌚28.9 ☀️4:37-18:57
24:小暑 72:鷹乃学習(たかすなわちわざをなす)
■ことの発端は、ラタトゥイユだった。
私はだいたい、出勤のない日に2〜3日ぶんの夕飯のおかずを作る。がっつり作るのは火曜と土曜の2回で、それ以外は作り置きを食べ、それがなくなれば冷食やレトルトを利用したり、買ったり、外で食べたりする。
私の作る夕飯は、ほぼ一汁三菜だ。
メインは、パルシステムなどで買った、魚など。それに、炒め物などの副菜、そしておひたしや和え物など、野菜だけの副副菜。味噌汁、ごはん。味噌汁には平均3種類具が入る。わかめ、とうふ、えのきが定番だ。
一品ものや麺類、肉料理は外食や買い食でじゅうぶんすぎるほど摂取するので、ほとんど作らない。せっかく家で食べるのならば栄養バランスが良いもの、と考えている。ほおっておくと偏食がちになる夫のためでもある。
この「副菜」がなかなかやっかいで、私は野菜だけでもかまわないのだが、メインの魚だけでは物足りない夫のために、豚バラを入れた野菜炒めだの、卵炒めだの、ウインナーだのベーコンだの、必ず動物性の食材を入れたおかずを作っていた。意外とバリエーションが少なくいつも悩みどころだ。
先週の火曜は、夫の予定が見えにくかったので、副菜にラタトゥイユを作りおきすることにした。夏でも比較的日持ちのする定番メニューだ。
野菜だけでは例によって物足りないので、ウインナーを入れた。夫がじゃがいも好きなので、じゃがいもも多めに入れた。私はこれらのどちらもいらないし、ナスやズッキーニがいっぱい入っているほうがいいのだけれど。
しかし、鍋いっぱいに作ったラタトゥイユを、夫はただ一度、器にほんの少し食べただけだった。あとは何かと理由をつけて、在宅勤務の昼も夜も、外食で済ませていた。
もとより夫には、「冷蔵庫を見渡して、残っているものを食べる」という概念がない。私が作ったものは、私がサーブするまで食べない。自由に食べてよいと思っていないのも理由だろうが、そもそも興味がない。冷食の餃子や、お店の唐揚げやコロッケを食べるほうがはるかに好きなのだから。
そして、中でも、酸味のあるおかずは好きではない。
私は結婚して15年間、夫から料理を「美味しい」と言われたことはもちろん、「家のごはんはやっぱりいいね」というようなことも言われたことも一度もない。それは私自身でも思っていない。なんなら台湾や香港のように朝から屋台へ行きたい。
ここまで読んで、わが家の夕飯づくり事情に、争いの火種が多数あることは伝わるだろう。私は夫のためなどを「考えて」作る。夫は、私の作ったそんなに好きではないおかずの残り物など、見向きもしない。
「せっかく作ったのに」という私に、「今まで僕の好きなものに寄せてくれたことあった?」と返ってきた時、ごく自然にこの言葉がでてきた。言う時が来たなと思った。
「もう私、これから、○○(夫)のための夕飯は作りません」
■「料理=美味しいものを食べる」と考えたことがなかった
夫はあっさりと「わかった」と言った。夫は私の料理があまり好きではないのだから(なにせもともと味噌汁があまり好きではない)、もとよりなくてもそれほど困らない。そんな人だからこそ、私はこの15年間、なんとか栄養のバランスを取ったほうがよかろうと、この世で一番嫌いな料理をがんばってきたのだ。
私はずっと料理を憎んでいた。なぜなら、時間がかかるのに達成感がないからだ。下手ではない。段取りも悪くないしメニューを考えるのも苦手ではない。が、ほかの家事と違って、あちこち汚れる。エントロピーが増大する。ほかの家事はやるとスッキリするのに、料理は汚れてぐったりする。最悪だ。
夜に待ち構える食事の支度という重労働のことを思うと、その日一日何もする気がしない。一刻も早く作り終えて重荷から解放されたい。私にとって料理は、私の人生の6割くらいを奪い取っていくものにほかならなかった。
(実は、私のパニック障害の発症の原因には、料理も多分にあった)
料理さえしなくてよければ、私はもう少し働ける。
料理さえしなくてよければ、まとまった時間に服を作ったり文章をまとめたりできる。あれもできる。これもできる。夢は広がる。
子供に食事の用意をするのは大人の義務だが、夫にその必要はないのだ。
永遠にやめないにしても、一度やめてみてもよいのではないか、ということは、以前からずっと思っていたことだった。その時が来たのだ。
ただ、魚などメインのものはどうしても2人分単位で購入することが多いので、「ご飯を炊くことと、主菜は用意します。あとは、私は私の作りたいものを作るので、その中で食べたいものがあったら食べてください。ただし、私が作りたくない日は何も作りません」と宣言した。
とはいえ、冷蔵庫にはこれまでの調子で買っておいた食材がある。大量に作ったラタトゥイユもある。
さてどうしよう。私は何が食べたいんだっけ。
そもそも、私に食べたいものなどあるのか?
自分はいったい何が食べたいのかわからないのは、この暑さのせいだろうか。
それとも15年間、私は自分の食べたいものを作る、ということをまったくしたことがなかったからだろうか。
私にとっては「料理=苦痛と憎悪」でしかなかった。
もちろん、味見をしてなるべく美味しい味に整えはするけれど、驚くべきことに、料理=美味しいものを食べる、という発想になったことが一度もなかったのだ。
しばらくぼんやりしたあと思いついたのは、「めんつゆに浸したトマトにミョウガを大量に刻んでぶっかけて食べたい」だった。
そして、「あのラタトゥイユをもう少し美味しくしたい」と思った。
「料理したくない」とは、この時、意外にも思わなかった。
そう、私自身、あのラタトゥイユを美味しいとは思っていなかったのだ。
焼き目もついていないウインナーと、切り方と食感にばらつきのあるじゃがいもがゴロゴロ入っている。
トマトソースは市販品の力も借りているが、どこかまだ酸味とエグみが強い。
ひととおりスパイス類をどっさり入れたつもりだが、パセリもバジルもオレガノも、どれも賞味期限を一年以上すぎていた。
夫に宣言した翌日、私はトマトを湯むきし、猛然とミョウガを紫蘇を刻んでぶっかけるだけでなく、オレガノを買い直しラタトゥイユの味を整えた。
残っていたズッキーニはオイスターソースとナンプラーと唐辛子につけた。このあいだ、ceroのライブの前に寄った新宿BERGで売っていたお惣菜にこんなのがあったのだ。
味噌汁は作らなかった。暑い日に味噌汁を食べたいとは、実は私自身が思っていなかった。市販の白だしでお吸い物を作り、豆腐ととろろこんぶだけを入れた。
さばの西京焼きとともに一人で食べたこれらは、信じられないくらい美味しかった。一人の食事は美味しくない、などということはひとつもなかった。美味しく作れば美味しいのだ。あまりの美味しさにむせるくらいの勢いで食べた。
■実は唐揚げを作りたかった
次は、エスニックなものが食べたい。パクチーを買おう。夫は嫌いだけれど。私のために買おう。厚揚げやナッツとサラダにすればガドガドっぽくなる。
「次は唐揚げを作りたい」と思いついたのは自分でも意外だった。
私は「揚げものはしない」と以前から宣言していた。夫の好きな唐揚げもトンカツもコロッケも、作るとおそろしく大変だし、これらは外で食べればいい。
揚げものはやっぱりしたくないが、唐揚げならフライパンで焼くなりトースターで焼くなりして作れる。そして副菜も副副菜もいらない。唐揚げとパクチーとごはんだけの夕飯でいい。豚バラや卵の入った野菜炒めなんてもう嫌だ。加工肉なんか見たくもない。
かくして、私は、自分の食べたいものしか作らない人生を歩みはじめた。
ほおっておくと、すぐに「これなら夫も食べるかな」と配慮しはじめて、あっという間にもとの夕飯事情に戻ってしまうだろう。作りたくない料理を再び作りはじめ、ただ苦しく疲れる日々にあっというまに戻ってしまう。私の15年間の「すべき」はそんなに簡単に振り切れるものではない。
が、一度でも「自分のためにしか作らない」と考えたとき、私は生まれて初めて料理がわずかに楽しみに思えた。美味しいものを食べるのが楽しみになった。食材を買い出しに行くことが待ち遠しいと感じられた。それが、悪いことのはずがない。絶対に、絶対に自分のために作ったほうがよいのだ。
私が私のために作った料理を夫が今後食べるかどうかわからない。が、おそらく私がこれから作る料理は、これまで作った料理よりはるかに美味しいものであることだけはわかっている。
そして、作りたくなくてしかたない時は、決して作らない。そのことを胸に刻んで、日々言い聞かせて生きようと思う。少しでも苦しくなく生きのびるために。
(根底が共通しているので前回の「新宿の底深くで、すべてにOKを出した夜」も、よかったら読んでみてください)
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