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怖いのも、短い時間なら大丈夫

2023年4月16日(日)🌘25.4 ☁5:08-18:15
24:清明  72:虹始見(にじはじめてあらわる)

 前回も少し書いたが、今年の頭から瞑想を強化しはじめて、3か月がたった。今も平均1日10分くらい、ぼちぼち続けている。  
 強化しはじめの、毎日発見があるような状態とは違うが、はたして瞑想と関連があるのかどうかもわからないような、「あれ、なんか今までと違う」ということが増えてきた。 
 (ちなみに、人や自分に優しくなったりイライラしなくなったりは、そんなにしていない)

 ここ2週間で、ひとりで電車に乗っている間に緊急停車を2回(地上)経験した。 
 その時感じたことは、「この状態が長く続いたらどうしよう、と想像すると怖い。長くなければ大丈夫」だった。 
 以前(というか本当にごく最近まで12年間)の私は、「駅間で止まっている状態」がただただ怖かったので、止まっている原因がなんだとかはあまり関係なく、動き出すのが1分後だろうが10分後だろうが、今閉じ込められているその状態が爆発的に怖かった。 
 が、その停車の理由が人身事故ではなく「異常を示す信号の受信による安全確認」だとアナウンスされた瞬間に、あ、だったらそんなに長くないな、とわかって楽になったのだ。そして、「まもなく発車します」とアナウンスがあった時、まだ発車していなくても、もう怖くなくなった。 

 「閉じ込められるのも、短ければ大丈夫」という、至極まっとうでな感覚がいくらか身についたのだ。
 これは、「1秒でも止まったら恐怖が爆発する」という、つい最近までの状態とは大きく異なっている。
 電車がへんなところで止まったら誰でも心配になる。長時間の立ち往生なんて地獄だ。という、合理的というか普通の人の感覚に、わずかに近づいたのだ。

 この停車中も、「誰かに助けを求めようかな。隣の人は優しいかな」「長引いたら一時的にバーンと怖くなるかもしれないが、その後はたぶん平気になるんだろうな」「じゃあ、もうどうにでもなれ、という姿勢で身も心も投げ出してみれば?」など、さまざまな可能性をさぐり、その都度不安がアップダウンすることも実感できた。

無印のちょうどよいポーチが廃盤になったので、余り布で試作してみたの図。執念

 また、先日都営三田線(地下鉄)に30分くらい乗る機会があった。 
 三田線が苦手な理由は大きくふたつ。「白金高輪手前でたまに信号停止する」「白金高輪から三田までのひと駅が長く、途中スピードを落としたりする」という点だ。 だからこの地点に近づくといつも怖いのだが、今回は違った。 
 なんと、「最初から最後までうっすら怖かった」のだ。

 つまり、特定の状況が爆発的に怖いのではなく、「地下鉄って閉鎖的で苦手だよね。今までもずっと怖かったしね」という、比較的真っ当な状態になったのだ。 
 
 これまで恐怖の増減に大きく関わりがあったはずの、走行スピードのアップダウンはそれほど関係なかった。 
 そして、「今までも怖かったしね、よしよし」と、セルフコンパッションを行うことで、緊張が少し和らぐということを、なんとはじめてわずかに経験できたのだ(!) 
 
 「ストレスや恐怖は認めてあげると和らぐ、自分に優しくするとスッとラクになる」ということは、マインドフルネスのみならず通常のストレスケアでもよく言われることだが、
 私は10年以上マインドフルネスを齧っても、実は一度も本当に実感したことがなかったのだ。

 これが毎回効くとはわからないし、もし「緊急停車」と「地下」のコンビネーションが来たら? その時はどうなるのかわはからない。 
 ただ、反応の流れとしては、先の、地上での緊急停車時とそこまで変わらないのではないのかな、と予想ができつつある。自分の心身の反応が、やや普通(?)になってきているのだ。これは瞑想により育ったメタ認知のたまものなのだろうか。

 まあ、3歩進んで2歩下がる話としまして。



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