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何かのためにやるか、やりたくてやるかの話

2022年11月23日(水・祝)🌑28.7 ☔️6:24-16:30
24:小雪  72:虹蔵不見(にじかくれてみえず)

急にヒマになった。ような気がする。

夫不在の1週間のうち、6日半はなんだかんだ忙しく、仕事がない日も人に会ったり出かけたり、雑事をこなしたりしていた。大掃除も思い切って終わらせた。
夫を乗せた飛行機が着陸する数時間前になって、ようやく、「あと、やることは読書と、映画でも見ることくらい」というところまで持ってこれた。
ここまで持ってこれたのは何年振りだろう。ぎりぎりである。

何本かの録画物を消化し、『富士日記』と『悠久の時を旅する』と、金沢の町家の本をちゃんぽんで読み、活字欲も満たされたところで、夫帰宅まであと約3時間。アマプラで(先日本当に間違えて入ってしまった。無料期間が終わったら退会する)、実は今まで観たことのなかった『ロシュフォールの恋人たち』を観て、終わって少したったところで夫帰宅。夫不在のリトリート期間にやろうと思ったことをやりきった。

で、ある程度満足してしまったこともあり、この雨の祝日、私の人生では極めて稀な、「あれ?何しよう?」という状態になっている。料理は昨日まとめて作った。
大掃除が早く終わってしまい、12月上旬あたりに「ちょっと時間があいたな」と感じるパターン、毎年やっている気がする。

いつもいつも次にやることが頭の中にあっていっぱいいっぱいの私は、時間があると実に落ち着かないのだから呆れる。「本当は何がしたいのか全然わからないから、1カ月くらいぼーっとしたら、何かやりたいことが出てくるかなあ」などとよく思っているくせに、実はなんもしなくていい休日が1日もあると焦ってしまうのだ。1日だよ!?

ねこは雨音を聴きながら実によくねている。これは電気毛布

普段の私ならここで、何かしらものづくりを始めている。服を作る、編み物をするなど。が、服は当分作りたくない気分。狭いスペースに大きいものを広げようとする行為は、窮屈さによりストレスが増す。
過去に使っていたお化粧ポーチと同じサイズ感のポーチを作りたいとずっと思っているので、それに手をつけていいのか迷っているところだ。が、やり始めると「完成させなきゃ」と思ってしまう。もう少しヒマに自分を慣らしてからのほうがよいのではないか。いや、完成させなきゃと思うマインドをどうにかする練習だと思ばよいのではないか。

そもそも、私は何がやりたかったのか。

今朝、マインドフルネスのクラスのアーカイブを観ていたら、「外的動機付けと内的動機付け」の話が出てきた。
このワードで検索すると、ビジネスや自己啓発寄りの記事ばかりが出てくるが、なにも特別なことではない。ふだんから私たちが人生の中で、「何かをする」時の動機づけが、ふたつある、という話だ。
①外的動機付け…何かの役に立つから、それをする
②内的動機付け…ただやりたいから、それをする
という、なんならほぼ無意識の選択を、日々おこなっているということ。

私は①がとにかく多い人間だ。もちろん、そうすることでよいことがたくさんあったからだろう。気取って背伸びして音楽を聴いたり読書をすることだって①だ。どこか、それによって人からよく見られたりしたかったのだ。
でもその結果、それを本当に好きになったり、心が豊かになったりすることを経験しているから、①を繰り返す。

ただ、若い頃は、見栄や背伸びという、かわいい①によって日々が作られてきたのだが、40代もなかばにもなると、もう見栄や背伸びはほとんどどうでもよくなる。それだけではモチベーションにならない。
その最たる例が、私の場合「職業ライターになる」というものだった。その動機は背伸びであり、自立した感を味わうという①だった。実際になってみて、何本かの仕事をこなした後、別にもう、いいか…と思ってしまったのだ。その仕事の中に、①を超えるものが見つからなかったからだ。

そうなったとき、②のやり方をすっかり忘れている自分に気づく。それが今の私なのだ。びっくりするほど、やりたいことが思いつかない。

そうだなあ。まず第一に、住環境をよくしたい。瞑想&ヨガ部屋があるくらいのヒーリング空間にしたい。
あとは、自然のあるところへ行きたい。キャンプに行きたい。ぞっとするような夕暮れや夜の静けさを経験したい。
自給自足したいとは思わないが、自宅の庭である程度の食材や材料をまかなえるようになりたい。
そこにはむなしさがない。

あと、曜変天目茶碗が見たい。クリスマスマーケットに行きたい。
案外ミーハーだな。まだ数日考えてみます。






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