フォトグラファーがカメラを持たないと思う時
写真を生業にしている、まとまるまことです。
写真を撮ることが仕事だからなのか、カメラを意識的に持たないと思うことがあります。
それは旅先であっても。
新緑の季節も終わりを迎え、一部の地域では梅雨入りもしたこの時期に、リムジンバスに乗りました。
空港から街中に向かうためです。山から街へ移動します。
移動の最中、窓から眺める景色にただただ感動してました。
木々や草花が太陽光を浴び、キラキラ、キラキラと。
輝くその姿に目を奪われてました。
綺麗なものを見ると写真に残したくなるのが写真欲。
でも、この時はカメラを構えずただただ眺めることにしました。
そう思ったからでもありました。
撮るというのは思いのほか、撮ることに意識が持ってかれます。目の前のことを100%楽しむためにはカメラは手の中にあるべきではありません。もちろん全てがそうとも言い切れませんが、例えば…
子供の運動会で、走っている我が子を全力で応援したい場合。
写真を撮る?
撮る撮らないどちらを選んでも間違いってことではないし、撮ることも応援することも両方やりたいんだって思っても間違いではありません。しかし、写真を撮りながらの全力応援は至難の業です。写真を撮ろうとすれば応援の意識が下がり、応援の意識を高めれば、写真の意識が下がるというシーソーゲームになってしまいます。
これと同じことが、リムジンバスの車窓で起こりました。
写真を撮るか目の前の綺麗に意識を向けるか…
僕は状況によってこの塩梅を決めるんですが、この時は先にも述べた理由によって、ここは撮りどころではないと感じ取ったため、眺めて楽しむ方ことを選びました。
この塩梅配分は撮りどころの感覚。
「楽しむ」と「撮る」
両方兼ねたいなら50:50
撮るに専念するなら0:100
楽しむと思ったら100:0
撮りどころってどうやって考えるの?
それを突き詰めて考えていくと、断捨離って発想に至たります。
不要なものを断ち、捨てる、執着から離れる、これが断捨離。
今は撮ろうと思えば何枚でも撮れてしまう時代だからこそ、闇雲に撮るのではなく、撮りたいと思う気持ちから一旦離れ、目の前に起こった出来事に対して自分の心が何に惹かれているのかをしっかり認識した上で、それでも写真に写せるか?写したいか?を考えること。
それが撮りどころの感覚を高めてくれます。
撮りどころを考えながら撮っていくということが、強いては「目の前の出来事をより楽しむことができる」につながっていきます。
覚えておいて損はないです。
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