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ロンドンからの便り:1.降って湧いた留学

今からおよそ10年前、2013年の春学期に在外研究でロンドン大学SOASにおもむきました。半年弱、実質5ヶ月半の「留学」でした。

英会話学校にはかなり熱心に通っていたのですが、その割には英会話の上達は全然でした。語学、とくに話したり聞いたりする能力は皆無だなぁという感じです。もちろんフランス語もドイツ語も、そして、これまた結構時間をかけたラテン語もギリシア語も、翻訳片手に原書が読めればと思って頑張ったのですが、これもまったく駄目でした。モノになりませんでした。

語学のセンスが決定的に欠けているのだと思います。。

日常会話がかろうじて何とかという状態で、おまけにすでに還暦を迎えていて適応能力がかなり劣化したなかでの海外留学でした。想像以上にしんどかったです。さらに50代半ばに発症した鬱がまだ寛解していなかったことも、しんどさを増しました。

ロンドンの生活に馴染めず、生活のペースをなかなか掴むことができないまま日にちだけが過ぎていきました。誰ともメールのやり取りをしていませんでした。

しかし、壮行会をしてくれた大学時代のクラスの仲間に何も書き送らないのは、さすがにまずいだろうと思い始めました。ロンドン滞在も残り2ヶ月余となった7月中旬のことです。彼らにロンドン滞在記のようなものをメールで書き送り始めました。

メールとして書いた文章です。
分量に多少のムラがあります。それを調整し、順番を少し入れ替えたりなどして「ロンドンからの便り」として、投稿していこうと思います。

なぜ「ロンドン便り」を投稿するのか

マガジン「介護生活と彼女の思い出」をご覧になっていた方は、すでにご存じだと思うのですが、3週間前の今日、8月20日の正午前に妻が息を引き取りました。あれからもうまるまる3週間経ったというのに、全然、生活が元に戻りません。当然のことながら頭も戻らないのです。

母危篤ということで来てもらっていた息子からは、とにかくnoteを再開するようにとかされています。
なぜか。
50代で患った鬱の再発と、それが引き金になってそのままボケ(認知症)るのを、極度に怖れているのです。

「お父さんの介護は無理だからね。とにかくボケないようにして」だそうです。

その通りですよね。息子に迷惑をかけないことと、noteへの投稿をいつも心待ちし喜んでくれていた彼女(亡き妻)のためにも、ここは踏ん張らねばと思っているところです。

数日前に香典返しをしました。結婚当初の写真を添付したお礼の手紙を書いて送りました。

香典返しと手紙が届きましたよという電話をもらったり、あるいは、まったく話したことがなかった姪の息子(27歳)から電話をもらって長電話をしたりしました。
中学時代の記憶しかない彼から、たくさんの励ましをもらいました。立派な大人になっていました。

いつもなら直ぐにそのことを彼女と共有していました。その相手がもういないのは、辛いです。全然慣れません。

ここ数日は、ひたすらアマゾン・プライムで映画、それもジェイソン・ステイサムのアクション映画を観ています。

このままだと確かに廃人になりそうです。

もともと私のnoteの読者は、他の方に比べたら圧倒的に少ないです。「スキ」の数もコメントもそんなにありません。それでも大学教員の時代よりも読まれているという実感があってnoteを続けてきました。特に、彼女が危なくなってきてからは、「つぶやき」投稿の読者のみなさんに支えられたという実感があります。そのことには本当に感謝しています。

「投稿しなければ」という精神の緊張で、頭は活性化される。妻を亡くして悲嘆に暮れている私には、noteの投稿は、ボケ防止、あるいは鬱の再発を防ぐ効果がある、というのが息子の主張です。

そうだとすれば、昔のメールの再録にすぎない「ロンドンからの便り」の記事もたとえ読者がゼロでもまぁいいか、という自分なりの割り切りができました。

ということで、読者ゼロを想定しつつも、それにめげないで、しばらくは「ロンドン便り」を投稿していきます。


第1便 2013年7月某日

日本を離れてからすっかりご無沙汰していて申し訳ありません。

さすがに一通の近況報告のメールも出さないままに帰国して、みなさんにお会いするのは気まずいなぁと思い至りました。とりとめもない内容になると思うのですが、これから帰国まで頑張ってロンドン便りを書いていこうと思います。

4月1日にロンドンについて、早いものでもう3ヶ月が経ってしまいました。9月15日にはこちらを発たなければならないので、もう残すところ2ヶ月余です。今回は、5ヶ月半という短期留学なのです。

降って湧いた留学

今回の留学は自分で望んでのものではありませんでした。突然降って湧いたものです。私にとっては晴天の霹靂へきれきでした。

学科会議の直前に学科主任の先生が私の研究室に来られました。
そして、
「若手の先生が留学を辞退したのです。その分を大学に返却するのはもったいないので、先生、行きませんか」と声をかけられたのです。前からもう一度イギリスに行きたいと話していたのを覚えていただいていたのです。

返答に逡巡しゅんじゅんしていると、念押しのように「学校の方針として在外研究は若手優先です。ここをのがしたら先生が在外研究に行けるチャンスはなくなる可能性大ですよ」と言われたのです。

だからという訳でもないのですが、結局まともな準備も何もできないまま慌ただしくロンドンに来てしまったという感じです。

私の勤務している大学では、希望すれば退職までに2回、1年間と半年の、計1年半の国内留学か国外留学が認められています。これは、他大学でもそんな感じのようです。ということで、私にとっては、今回が最後の留学です。

もちろん一度も在外研究の権利を行使しないで定年になる先生もたくさんいらっしゃいます。それだけに2回目も無事に権利を行使することができたのは、本当はラッキーなことなのです。

泥縄の留学は大変

泥縄での留学は、いろんな意味で大変でした。

本来の留学(在外研究)は、数年前から準備し、綿密な研究計画を提出し、そして、受け入れの大学との調整をすでに終えていることが必要なのです。
そして、事前に学科主任との調整の上で学科会議に提案されます。そこで承認を得て、次に教授会での留学先(受入れてくれる大学)も含めての承認が必要になります。最後に理事会への上申、そして、そこで可否が判断されます。

ところが、今回は、若手の先生の留学辞退を受けて、突如、舞い込んで来た話です。私に準備などあろうはずもありません。私自身が若手であった、44歳(大学の教員では若手なのです⁉︎)の時に、ケンブリッジ大学に1年間、留学していました。それで、今回も、同じケンブリッジ大学にということで学科主任の先生が作文されて、学科会議と教授会を通過させたのです。

17年前に受け入れていただいたケンブリッジ大学の先生は、とっくの昔に定年を迎えられていらっしゃいません。その当時も全然英語がうまくなかったので、他の先生との交流などは皆無でした。もう一度、ケンブリッジに来て研究するというほどの成果を上げることもできませんでした。それで積極的にコネクションを作ることもしていませんでした。

派遣受け入れ先は?

とにかく私の在外研究の申請は、無事にというべきなのか、理事会の承認まで降りたのです。私にとっては最大の難関は、私を客員研究員として引き受けてくれる機関の招聘状しょうへいじょうでした。
招聘状(Invitation)がなければ、大学からの最終的なGOサインは出ません。そもそも、英国の滞在ビザがとれません。

最初に申し上げましたように、学科会議が始まる直前に学科主任が研究室に来られ、半年間の留学を持ちかけられたのです。受け入れ先などあろうはずがありません。

私を客員研究員(visiting scholar)として受け入れてくれるところを探すのには、難儀しました。

彼女は、今度は、ケンブリッジよりもロンドンの方が良いという希望でした。留学費用は、一人で行っても夫婦で出かけても、私の大学では一人分しか出ません。だから、単独で行かれる先生がほとんどです。しかし、我が家はいつも夫婦で出かけます。

前回、44歳の時は、高校生の息子も連れて3人で行きました。
今回は、夫婦で来ました。よって、彼女の希望も聞く必要があります。彼女の希望は、前回ケンブリッジだったから今回は大都市ロンドンに住みたいということでした。

ロンドン大学SOASのJRCが受け入れ先

同僚の先生がロンドン大学SOASに在外研究中でした。最終的には、その先生に泣きつきました。いろいろと調べてもらって、ロンドン大学SOAS(アジア・アフリカ研究学院)のJRC(日本研究センター)なら簡単に受け入れてくれるそうですよ、という情報をもらいました。

JRCの所長さんのメールアドレスを教えていただき、すぐにメールを書きました。梶井基次郎の研究をされていた方で、奥さんが日本人の先生でした。日本語でもOKということでしたので、日本語で半年間の在外研究を認めてほしいというメールを書きました。

返事はすぐにいただき、招聘状も届きました。

出発の直前までバタバタしていましたが、何とか無事に、ロンドン大学SOASでの在外研究を行っています。

ということで、「ロンドンからの便り」を少しずつ書いていきます。


最後に

過去に書いたメールを転記するだけなので、分量的に大丈夫だと思っていました。まだ第一便の内容を全部書き終わらないうちに字数が3,500を越しました。

ということで、この続きは、第2便で書きます。

見出し画像は、ロンドンの居住先の近くに買い物に行った時のものです。後ろ姿は、亡き妻です。

しばらくは、本当にボチボチの投稿になると思いますが、よろしくお願いします。

本日も最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。


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