SM性癖の育つ土壌
人は皆変態なのかもしれない。
だが、それが育つかどうかは、
土壌に大きく左右される。
他のあらゆる才能と構造は同じなのである。
ただ、ことSMにおいては、
愛と暴力という歪んだ土壌が必要になるだけで。
「ぐりぐら」
という性癖をご存知だろうか?
くすぐり、くすぐられの意味で、
いわゆるコチョコチョのことである。
私のSMと性の目覚めの原体験はこれである。
実家ではよく遊びの中で、
コチョコチョされることがあった。
それもがっつり馬乗りになって、
限界超えて過呼吸になっても続く。
元々私は感覚の過敏な方であったから、
笑いこけてしんどいレベルまですぐに到達して
酸欠で頭がチカチカすることがよくあった。
幼いから説明も出来なかったが、
この身体感覚そのものと、
母と私に順にそれをしていって、
とても満足気な表情をしていた
父の顔が忘れられない。
いつもは見られないほどに、
ニヤニヤした心からの良い笑顔だった。
それは、とても父らしくて、
私が一等好きな表情であった。
不思議と嫌悪感は無かった。
小さい頃は無邪気に、
父と結婚する!と言い放つぐらいに、
父が好きだったからかもしれないが。
それは、家族愛と呼ぶには、
いささか熱すぎる感情だった。
そして、時が経ち妹が生まれ、
私は当たり前の様に妹にもそれをした。
私の中で何かが弾けた。
これは楽しい。
私が単なるMではなく、
スイッチャーになった芽生えの瞬間だった。
ぐりぐらが原点とはいうものの、
鞭、水責め、その他諸々の真似事で、
鞭のようにタオルを激しく振り下して叩いたり、
シャワーを呼吸出来ないほど顔に当て続けたり、
幼いながらに妹に試してしまった。
それは被虐待といじめとから来る
鬱屈とした心の屈折から行き場がなく
妹に当たり散らしたのでもあったが、
今思えば、
性の目覚めでもあったようにも思う。
思い切り嫌がっているのに、
加虐が出来るほど残虐でありながら、
それで確かに心踊る私が居た。
その心の動きが何者なのかは、
まだ分からずにいたが。
※幼い妹への虐待という取り返しの付かないことをやってしまった自覚があり、謝り散らした上、今はせめてもの罪滅ぼしとして出来るだけ話を聴いたり望みを叶えるように貢ぐようにはしてます。もちろん姉妹としての愛情からもあるけれど、私が妹に甘いのはそんな綺麗な理由だけではない。
SMなどという罪深い性倒錯を私が抱えたのは、
私の生い立ちが暴力と愛の連鎖のような、
歪んだ環境で育ったからかもしれない。
SMは、DVや虐待に
精神構造的に似たとこがあると思う。
追体験ともよく言われるが。
でも、その罪と罰の両方を持つ歴史ですら、
楽しんでやろうと思うんだ。
私は、被虐・加虐を両方やる
スイッチャーではあるものの、
人に恵まれて、精神的治癒と成長をして、
ある一定は乗り越えてきたように思う。
その中で、今、
自分の性や快楽にあまり
執着しなくなっている。
愛を知った所以か、
被虐・加虐しなくてもいいし、
なんなら色事すらしなくてもいい。
それぐらいの穏やかな心持ちで居られている。
(もちろん、求めてくれるならとても嬉しいので、ワンコのように尽くすし、今までのテク総動員で楽しませるが。)
自分が、歩んできた歴史的にも属性的にも、
人を傷つけやすい脆さを持つような
最低な奴なのは分かっているからこそ、
これからは、使い方を誤らず、
人を喜ばせるために、
性を使いたいと思う。
性は生きるにりっしんべんと書く。
すなわち、心と生きることなのだから。