掌編小説 『睡蓮』 町下 樹(マチシタ ナオキ)

 池には睡蓮が浮かんでいた。日は頂点より少し落ちていた。水面には穏やかな赤色の睡蓮とその葉が写り、ときどき風に揺らめいていた。池の少し奥には小さな林があった。そこから鳥が飛び立ち気まぐれに木々を揺らしていた。木から離れた葉がひらひらと舞い、睡蓮の池に浮かんだ。
 池の手前では顎鬚の長い老人が椅子に座り、キャンバスに向かっていた。老人はキャンバスを長い間眺め、次に睡蓮の池を眺めた。それを何度も繰り返し、少し筆を動かしてまた眺める作業に戻った。
 キャンバスの絵は実物の風景とは大きく違っていた。線は細かいが、全体的にぼんやりとしていた。しかし目の前の風景と比べても違和感は全くなく、まるでもう一つの現実を描いているみたいだった。
「ご老人、どうして睡蓮なんぞ描いておられるのですか」私は彼が手を止めたところを見計らい話しかけた。
「人は描きたくないのです」と老人は言った。
「ではどうして風景をその姿のまま描かないのですか」私はしばらくためらっていたが、老人にそう訊いてみた。
「私にはこう見えるのです」と老人は呟いた。老人は早く絵の続きを描きたそうにも見えたし、もう二度と絵なんて描きたくなさそうにも見えた。太陽は先ほどより少し落ち、雲がかかっていた。
 近くでみるとどちらが現実ともわからぬほど、絵は奇妙な魅力を放っていた。光や時の流れまでも一枚のキャンバスに収めてしまったみたいだった。その時にはもう私はその絵が欲しくてたまらなくなっていた。美術に疎い私だが、すっかりとその睡蓮の絵に魅せられてしまっていたのだ。
「ご老人、どうかその絵を買い取らせていただけないか」と私は言った。
「分かりました。ではあなたにお譲りしましょう。お金は結構です。明日には完成するでしょうから、また同じような時間にここへ来てください」と老人は言った。
 私はとても驚いたが、老人の意向に甘えることにした。それ以降私たちは一切しゃべらず、老人は相変わらずキャンバスと睡蓮、私は後ろの木陰に座り美しい風景をぼんやりと眺めていた。
 翌日睡蓮の池に訪れたが、そこには老人の姿もあの恐ろしく魅力的な絵も見当たらなかった。太陽が頂点を過ぎ、空が睡蓮の色を描くまで老人が現れることはなかった。私は諦め、その場に立った。夕暮れ特有の涼しく長い風がほのかな睡蓮の香りを運んできた。茶色になった水面の睡蓮が、静かに沈んでいった。

参考資料
クロード・モネ『睡蓮』連作

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