村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』 感想文 #猫を棄てる感想文

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 村上春樹の作品では父親をはじめ、家族という存在がほとんど出てこない。特に主人公においては家族という印象を意図的に消しているようにも感じる。家族という存在は個人の本質、弱さなどをうつし出すものである。幼少期のか弱さ、家族への思い入れは誰にでも少なからず存在する。対して村上春樹の主人公は総じてクールである。その一要素に「家族」の存在をにおわせないというものがあるように思う。少なくとも表層的には自分以外の人間に情は感じていないように思う。

 だから今回の『父親について語るとき』という文言は衝撃的なものであった。もちろん誰にでも父親と母親はいる。しかし、村上春樹作品を読んでいる我々にとってはその事実はヴェールで隠されていたのではないだろうか。村上春樹にも父親はいて、皆と同じように成長の過程において大きな影響を受けていたのだ。そのルーツが明かされるということで、本当に楽しみに読み進めていった。まず目につくのが高妍さんの美しい絵だ。村上春樹さんは以前カバーや挿絵はとてもこだわっているとおっしゃっていたし、読者からもそれはよくわかる。佐々木マキさんをはじめ沢山の方々が村上春樹作品のカバー、絵を担当してきたがどれも非常に味のあるものとなっている。村上春樹作品の世界観と絵が溶けあい、言いようのない素晴らしらが生まれている。その中で今回の高妍さんの絵はいつもとは少し違う特別なもののように感じた。村上春樹作品がそうであるように、挿絵やカバーも抽象的なものが多い。しかし今回は繊細な美しさ、というのが大きな印象だ。細かい風景、多彩な生き生きとした表情までもが鮮明に描写されている。そんな絵のタッチもこの文章に特別な印象を与えているのだろう。

 本文では、村上春樹作品のマテリアルとなる物語が垣間見える。木に登って高いところから降りられず消えてしまう猫、というのはスプートニクの恋人に登場するミュウの体験として描かれる。村上春樹作品の源流となる現実体験を見つけるの面白くもあり、哀しくもある。

村上春樹作品を読むと、巧みな比喩や繊細な風景、心情描写によって個人個人のこころの奥深くに文字の中に埋め込まれた世界を再現することができる。それは夢のような空間であり、自分の中に在ることはあるが一種の神聖さを帯び現実からは乖離したものとなっている。実際の楽曲など現実的なものを使用しながら非現実な世界を表現してしまう魅力があるのだ。それは、手に届かないからこその美しさといったものだろう。

その美しさがこの文章をもって現実味を帯びてくる、そういった自分のこころの中の幻想的な世界の破損が一種の哀しさを生み出すのだろう。

しかしゼロから生み出されるものは何もない。「すべての言葉は引用だ」という言葉がある。この文章の登場を機に、一つ進んだ読み方も重要なのだ、と考える。

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