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外出する狂気

 冬の凍えも、日々の労働の労苦も、賃金の少なさから来る貧しさも、その男は物ともしなかった。彼には愛する恋人がいたからだ。
 今日も、仕事帰りの彼が運転する車の助手席には恋人のトモコがいた。キャメルを何本も吸いながら、窓を全開にし、彼の好きな音楽を大音量でかけた。
「ねえ、この曲、素敵」
「そうかい。これはアヴァランチーズっていうんだ」
 彼女は、彼が音楽に強く聴き惚れながら運転していることを知っている。運転中のお喋りよりも、運転中の音楽鑑賞の方が好きだということを、彼女は知っているのだ。だから、彼女は「へえ」と言ってそれ以上何も彼に言わなかった。そもそも、彼女は彼と会話をする必要性が薄い。なぜなら、彼と彼女は、お互い深いところで理解し合ってるからだ。何も言わなくても、お互い何を考えているか、わかるからだ。
 彼は、常に片手でハンドルを握っていた。左手は、彼女が握っているのだ。彼は、彼女の体温を常に感じている。暖かい手だ。それでいて、柔らかい。彼は、『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する吉良吉影ではないが、彼女の手を、胸や、尻や、脚や、腰や、膣や、目や、鼻や、唇や、耳や、眉毛よりも、愛していた。危険な運転かもしれないが、彼にとって、彼女が隣に座っていながら両手で運転することの方が、情緒の安定を崩す、危険な行為なのだった。
「なあ、トモコ、喉が渇かないか」
 信号が青になった途端、彼は彼女に尋ねた。
「いいえ、平気よ」
「そうかい、俺は喉が渇いたよ。次のファミマで一旦飲み物を買うことにするよ」
 ファミリーマートに車を駐車すると、彼は急いで店内に入った。彼女は極度の寂しがり屋であり、彼がいない車の中に一人でいると、取り乱して泣いてしまうのだ。
 カルピスを買って車に戻った彼は、「待たせて悪いね」と言ったが、彼女は「ううん」と首を横に振った。
 二人が乗っている車はアパートに着いた。彼は、鍵を開けて玄関に入り、その後、鍵をかけた。ダウンジャケットをハンガーに掛け、キャメルに火をつけ吸い終わったら、カップラーメンの蓋を開け、ポットからお湯を入れた。
 それらの行動を取っている時、彼は彼女と一言も会話を交わさなかった。理由は簡単である。彼女はこの部屋にいないからだ。もっと言えば、彼女はこの世に存在しないのだ。生まれたこともなく、死んだこともない。いや、生まれたとすれば、それは母親の胎内からではなく、彼の頭の中からである。彼女の姿は彼の幻覚であり、声は幻聴なのだ。
 彼は、彼女が同じアパートの別の部屋にいると思っている。しかしながら、自分が恋人と同じアパートに住んでいながら別居する合理的な理由を、彼は知らない。彼は別居の理由を、「彼女がそうしたいから」などという、余りにも漠とした理由で納得している。なぜ、彼女はそうしたいのかという、ごく浅い領域にすら踏み込まない。
 ずるずると音を立てて彼はカップラーメンを啜った。食べ終わると、スープを流しに捨て、カップをそこに置いてそのままにした。
 何か音楽を聴きたくなった。彼はパソコンでYouTubeを開き、自作のプレイリストを再生してミュージック・ビデオやライブ映像を流した。
 りん、と、ベルが鳴った。この部屋の呼び鈴である。誰だろうかと、彼はパソコンをそのままに、玄関へ向かった。鍵を開け、ドアを開くと、そこにはトモコの姿があった。

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