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外出する狂気(四)

 男性は、少し恐怖していた。目の前の、壁を背に座り込む彼が、男性の目に不審者としか映らなかったからだ。
 話しかけても良いのだろうか。何か質問しても良いのだろうか。鍵がなかなか鍵穴に入らないことを装いながら、男性は躊躇し困惑した。靴もサンダルも履いていない目の前の不審者は、その顔もどことなく病的で、近寄り難い雰囲気がある。男性は彼に対する関心を胸の奥に押しとどめ、鍵を開け、黙って自分の部屋に入った。
 一方で、彼の頭の中はというと、トモコが扉を開けて出てきた時のための言い訳をひたすら考えていた。
 忘れていたことの弁明は、何パターンか思いついた。しかしその嘘を見抜かれないだろうかと用心もした。ならば、偽らず、誕生日を教えてもらったことがないという旨を伝えるべきかとも考えた。しかしトモコからすると、教えた覚えがあるからこそあんなに激怒しているわけで、これもまずいかもしれないと彼は思った(もしかしたら、教えてもらってないのは自分の記憶違いか、聞き逃しかもしれないとも思った)。ならば、やはり忘れていたことのもっともらしい理由を考えるべきか——。
 そうやって、彼が頭の中でぐるぐると同じ場所を回っているうちに、男性は私服に着替えた姿で扉を開けて出てきた。男性は、扉を開ける前、彼に話しかける決意をしていた。しかし、扉を開けた後の男性の行為はただ彼を一瞥するのみに留まり、男性は彼を恐れ、その脚で何事もなかったかのように近くのコンビニへと向かうのだった。
 数分後、男性はカップ麺と炭酸飲料の入ったビニール袋を手に提げ、アパートに戻ってきた。コンビニで商品を選ぶふりをしながら、男性はたっぷりと覚悟の念を整えた。もしかしたらあそこにいる男を放っておくと、何か重大な犯罪事件を招いてしまうかもしれないと、自分に何度も言い聞かせた。
「あの……、どうされましたか?」
 男性は柔和な表情と柔和な喋り方で恐る恐る彼に話しかけた。
「えっ?」
 彼は驚いた。そしてこう続けた。
「あ、ああ、いえ、ちょっと、何ていうんですかね、恋人同士、痴話喧嘩をしてまって」
 男性にとって、彼のこの態度は意外だった。照れたように笑みを浮かべ、男性の顔色を伺うように質問に答えるその様は、男性の、彼に対する警戒心を少し緩めた。しかし、男性にとって、彼が不審者である事には変わりはないし、彼のその態度は、男性を少し強気にさせた。
「……えーと、よく意味がわからないんですが、ここで何をしてるんですか?」
 先程の柔和さは既になく、男性は訝しげな表情で淡々と彼に質問した。
「あ、いえ、この部屋に住んでいる僕の恋人がですね、僕に怒って、部屋から出てこないんですよ。すいません、こんなとこで座り込んじゃって」
 彼はそう言うと立ち上がった。どうやら自分の事を怪しい者だと目の前の男性が思っている事を彼は先の質問で悟ったが、このようにきちんと説明し、自分の非常識な行動を詫びれば、この小さな事態は丸く収まると彼は確信していた。
「この部屋……、ですか?」
 しかし、現実はそうではなかった。彼の言う恋人とは飽くまでも実在しない幻覚であり、この表札のない部屋には誰も住んでいないからだ。
「いや、この部屋、だいぶ前から空き部屋ですけど……」
 男性は彼にそう告げた。彼は、「はい?」と言い、間抜けな顔をした。
「いや、そんなわけないですよ。トモコはこのアパートの一階のどこかの部屋に住んでるんです。で、一階の表札、さっき全部見て回りましたが、どれもトモコの名前じゃないんです。サエキっていう名字なんですけど、ほら、どこにもないでしょ?」
 彼は落ち着いた調子で男性に説明した。男性は、少し混乱していた。
「今まで、彼女さんの部屋を知らなかったんですか?」
「はい」
「ですが、この部屋は本当に空き部屋なんです。あなたが、他のアパートと間違えてしまったんじゃないですか?」
「いえ、間違いなくここです。実は僕もこのアパートに住んでるんです。二階に」
 男性は、決定的に、彼を嘘をつく犯罪者か妄想癖のある頭のおかしい奴のどちらかだと断定した。男性はひとまず、「ああ……、そうなんですかぁ……」と何度も頷きながら彼の言うことに納得したかのように言って、その間に、自分が今何をすべきかを考えた。一旦自室に入り鍵をかけ、すぐに警察を呼ぶべきだろうか。この不審者がナイフなどの凶器を隠し持っていない保証はない。だからそれが最も安全に思える。だが、その間にこの不審者は逃げてしまうかもしれない——。男性は、目の前の彼に対し嫌悪感のようなものを抱いていた。言っていることがめちゃくちゃなのに態度や口調だけは常識人ぶっていて、しかし顔はやはり妙に病的だ。馬鹿にされてるようで不快である。そしてその顔つきが無性に気に食わない。犯罪者なのか異常者なのか、或いはその両方なのか知らないが、こいつを痛い目に遭わせてやりたいというサディズムのような感覚が男性に芽生えていた。
 ふと、男性の目に彼の足元が目に入った。そう言えば、こいつは靴を履いていないのだった。辺りを軽く見渡しても、靴が脱ぎ捨てられてはいない。
 やはりこいつは犯罪者ではなくただ頭がおかしいのだ。靴を履いていない空き巣や強盗などいるものか。男性はそう思った。そして、こうも思った。靴を履いていなければ、走って逃げるスピードはそれほど速くはないし、それが服装の特徴となって警察も少しは捜しやすくなるだろう。特別何かの犯罪を犯しているわけではないかもしれないが、警察に職務質問される対象にはなるし、そうすればこいつはビビって、もうこのアパートには近付かないだろう。
「じゃあ、僕は失礼しますね」
 そう言って男性は自室の扉を開けた。
「どうもすいません、お騒がせして」
 苦笑いをしながら彼はそう言って一礼した。男性は、扉の鍵をかけた。

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