かんたんな哲学や仏教と精神と心の関係

かんたんな哲学や仏教と精神と心の関係

・哲学の研究対象の変化
 哲学は森羅万象の真理を研究する学問でしたが時代が下ると人間の精神やこころの中でも知性的な部分の研究に焦点が絞られていきます。
 例えば例えばフッサールなら「現象」、ラカンなら「想像」、デリダなら「現前」というように精神の一部に関わる言葉を研究するようになります。逆に精神の要素や機能の中でも感情のようなものは哲学の範囲から外れてゆきます。多分哲学の研究対象が絞られてきたのではないかと思います。例えば「感情とは何か」というのは哲学の中心問題ではなくなってきたのだと思います。哲学の対象とするのは精神の「知」に関する周辺、「認知」「認識」になってきたのではないでしょうか。

・昔は哲学は守備範囲が広かった
 昔の哲学は守備範囲が広かったです。神学はもっと守備範囲が広く古代、中世では人によっては全ての学問は神学の一分野と考えていた人もいたでしょう。
 中世末期、ルネサンスあたりから近代にかけてが近代哲学が勃興します。当時は哲学の範囲も広くて世界論、存在論、空観論、人生論、生物論など色々含まれていたと思います。例えばデカルトやパスカルは哲学者で数学者で物理学者でもあります。
 ニュートンの著作は自然科学ではなく自然哲学という言葉を使われてますし、ケインズなどがニュートンを最後の錬金術師と評してますし、宗教観はイエスを人間と見るキリスト教のアリウス派に近かったようです。
 時代が下ると学問が細分化します。哲学が科学という言葉に置き換わっていきます。
 存在や世界、宇宙、空間、時間を客観的で現実的に研究しようとするなら哲学ではなく物理学を勉強するようになります。
 カントの哲学書の3部作は純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判ですが後ろの2つは今では哲学の範囲か微妙です。
 更に時代が下ると主観的に存在や世界、宇宙、空間、時間を研究するのも難しくなります。天動説や地動説、ガリレオやニュートンの時間論や空間論は直感的に分かりやすいものでした。現代物理学で相対論や量子論が出て自然で直感的な理解が難しくなってしまい存在や時空間を主観的に考えることの意味がよく分からない時代になっているのかもしれません。

・客観的な現実でなく人間の内面の研究へ
 学問の研究分野の細分化の結果か哲学は精神やこころの研究を焦点とするように変わってきました。精神やこころと言っても一部の要素や機能についてで大雑把にみると知性に関わる部分です。精神や心という言葉は人間の内面を表す言葉としてのもっとも大きなくくりだと思いますが哲学や仏教はその中でも特定の部分を研究しています。例えば「認識」「想像」「現象」「現前」などです。いうなれば知や知性と関係する部分です。
 これが結論なのですが哲学の語源を考えると哲学はphilosophyでこれは「知を愛する」みたいな意味です。実際には今日では「知性とは何かを探求する学問」という意味になっているかもしれません。

・精神やこころという言葉は意味が広すぎて曖昧
 精神やこころという言葉は意味が曖昧です。精神という言葉が含まれる学問には例えば精神医学、精神分析学があります。心という言葉が含まれる学問には心理学や心学があります。心学は東洋の中世近世の学問ですので近代科学ではありません。それぞれの学問が精神や心全体を対象にしているのかもしれませんが精神やこころ全体を理解できる域には達していません。精神や心についての学問は他に脳科学や認知科学が明確でわかりやすいかもしれません。
 逆に曖昧さを扱う分野は精神やこころという分野と相性がいいかもしれません。例えば人文科学です。ポール・ヴァレリーという詩人で評論家が精神の研究をライフワークにしていて第一次世界大戦後のヨーロッパ人の精神状態を残した数々の名文がありますが人間の精神というのは複雑で奥が深いのだなと感心させられます。

・対象を絞ったおかげで哲学は完成した
 近代哲学に比べて現代哲学は完成した学問です。完成したと言う事は言い換えると終わった学問ということです。終わった学問は研究対象というよりは学習対象です。
哲学を終わらせることができたのは哲学が研究対象を絞ったからと言えるかもしれません。精神や心の中でも更に知的な部分に焦点を絞って「知」の構造を構造主義で、あるいはポスト構造主義でまとめたからと言えるかもしれません。

・現実、象徴、想像
 例えば世界を3通りに分けてみます。ラカンという思想家の分け方で世界を現実界、象徴界、想像界と分けてみます。
 現実というのは自然科学などの実証科学が対象とするような世界です。我々の感覚の外側と感じられます。象徴界は広く言えば表象や認知、認識を何かに代入したものです。記号や言語の世界でもありこれを1つの世界と区別します。想像界がいわゆる精神や心の世界です。

・現実は意外と複雑
 物理学の世界を考えてみましょう。近代物理学の世界は美しく調和がとれたように見えるシンプルに感じられる世界でした。ニュートンの力学の概要は高校までで学びます。しかし現代物理学は複雑です。例えば相対性理論であれば光速度一定という前提に立つと時空間や直感の概念が非経験的で非直感的になり複雑になります。
 例えば互いに等速直線運動しているような座標系の上にいる2人の人間からみる時点や時間、地点や距離の変換がニュートン力学のようにいかなくなります。こういう値が変わることで例えばある種の保存則が崩れたりします。例えば質量保存の法則、エネルギー保存の法則がそれ単体で成り立たず両者を合わせたものが保存されます。いわゆるE=mc2で質量欠損がエネルギーになるいわゆる核反応が有名です。なにわともあれ時空間の感覚や座標変換も数学的に複雑になります。
 量子力学も従来の存在や実体というものの概念を変えてしまいます。しかもこれも非直感的で非経験的で分かりにくいです。哲学は時や空間や存在や実体を分かり切ったもののように見なして思弁してきましたが自然科学が発達するとこれらの分かり切ったものと思われていたものは粒子論にせよ空観論にせよどんどん分からないものになります。
 地動説みたいにしっかりした世界の形があれば神学も展開しやすいかもしれません。
 天動説やニュートン力学みな異なものであってもイメージしやすい時空間と存在概念があれば哲学も展開しやすいかもしれません。
 現代哲学で存在や時間、空間を考えようにも現代物理学自体が難解かつ未完成です。哲学で現実を探求しようとすると現代物理学ではなく心理のような側面から研究することになったのかもしれません。

・実証と論証
 実証と論証から成り立つのが自然科学などの西洋近代科学です。実証は観察や観測や実験です。自然科学を代表とする科学は論証と実証よりなります。論証は論理と弁証に分けられます。論理、理論を使って証明していくのが弁証と言えるかもしれません。論理学は論証からなります。論理学は昔は弁証法と言ったこともあります。弁証するための理論が論理なのが論理学と言えるかもしれません。数学は論証+なんかの理論です。哲学は昔はいろんな対象を相手にしていましたが、実証としては内省や主観的な感覚を研究材料として使うように変化していったと思います。
哲学は実証にあたるものが精神の観察と言えるかもしれません。これは主観的で客観的でないと批判される材料になりそうです。ですから精神の中でみんなが合意してくれるような事をより厳密に定義して納得して議論を進めていかないといけないのかもしれません。例えば現象学がそうです。

・想像と象徴
 想像という言葉は広く取れば精神やこころと同じでしょう。その中で象徴を重視するのがラカンの特徴となります。我々は意識に浮かんだ像を象徴化します。象徴をその物自体として想像の要素とします。また象徴はその中に言語や記号を含みます。象徴=表象=現前の総体が現象=想像みたいに考えるとフロイトの自由連想やラカン派の理論ではありませんが哲学の解明とは想像と象徴の解明とも考えられます。

・それぞれの構造主義化
 現実界、想像界、象徴界それぞれについて構造主義的にみるのが現代の傾向です。科学の理論も技術の機械などの設計も構造ですし、言葉やプログラミング言語や論理も構造主義化されています。精神の中でも想像、認知、認識、表象などの部分が哲学では構造主義が導入され哲学に革新をもたらしました。

・仏教の場合
 仏教も原始仏教から大乗仏教の流れを見れば精神探求に行きついていると思います。 大乗仏教で中観論が出た後、瑜伽行唯識派というのが出ますがこれは精神の探究です。
 お釈迦様の時代から禅定や止観は大切なものとされて精神の探究は仏教の大切な修行方法です。
 古い仏教が精神のどういった側面を探求した過を考えてみます。

・仏教の精神やこころの要素
 お釈迦様か当時のインドの文化では人間は五蘊からなっていると考えたようです。
五蘊は色受想行識です。色が物質的要素でそれ以外は精神、というか人間の内面に関わる部分です。受は感覚で行ははっきりしないとして、想は想像、識は認識と考えることができます。
 縁起と呼ばれる十二因縁生起を考えてみます。無明、行、識、名色、六処、触、受、渇愛、取、有、生、老病死という12この要素からなっています。
 仏典によっては悟りには何段階かの悟りに至る段階があるとされます。九次第定と言われ、欲界、色界、無色界にわかれます。欲界や色界では、欲、受、喜、楽、苦などからなりますが、その上の段階では識、有、想などのより知的な概念の領域に至ります。
 仏教での禅や瞑想は感覚的、感情的な段階からより知的な精神の要素や機能とそれらからなるシステムを理解していく過程として表されているように見えます。

・悟り近づくのは知性の解明による
 無色界は空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、滅受想よりなります。
 大雑把に「識」を「認識」、「有」を「存在」「実在」、「想」を「想像」という風に解釈すると悟りとは知や認知、認識形成を解明する過程と解釈できるかもしれません。そうするとこれは仏教と現代哲学は同じテーマを共有しているということになります。仏教の方でよく分からないのは精神の要素を体系付けているかどうかです。体系付けているなら体系づけられたものはどんなものであれ構造ですからやはり構造主義になります。

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