かんたんな自由、自由主義と現代哲学、現代思想の関係
かんたんな自由、自由主義と現代哲学、現代思想の関係
・自由、平等、差別
2023年6月現在国会で面白い法案が審議されている。
LGBT法だ。
この問題を突き詰めるとなかなか面白い問題が出てくる。
純粋に理性、合理、論理的に考えるとトイレ、風呂、スポーツ大会などを男女別にするのは差別ではないかという問題に行き着く。
実はたかだか半世紀前くらい前を考えてみてもトイレ、風呂、スポーツ大会などは必ずしも男女別に分かれてなかった。
これは豊かでなくお金がなかったからだ。
今でも小さいお店などでは男女兼用のトイレもある。
風呂も男女別にするのはコストがかかるので貧しい時代は混浴にせざるを得なかったかもしれない。
女性の社会進出、ウーマンリブ、女権拡張が進んでない時代はそもそも女性がスポーツにも進出していなかった。
男女を分けない、これは極めて差別がなく平等だ。
というとちょっと昔はフェミニストに怒られた。
残念ながらスポーツは同じ競技を男女で争うと明らかに男性の成績が良くなる。
スポーツ大会についていえば男女差が出るのは自明だろう。
ドーピングする時に使うのはテストステロンなどの男性ホルモンであってエストラジオールやプロゲステロンなどの女性ホルモンでないことを考えればこれは特に抵抗なく受け入れられる結論だと思われるがそれでもそれを否定するフェミニスト的女性はいた。
ウーマンリブや女性の社会進出は女権拡張やアファーマティブアクションと関係ある。
女性の権利を男性と平等にするのではなく男性以上にするという場合があってこれは平等の観点からは不平等で逆差別と見做される場合がある。
違う観点から見てみる。
機会の平等と結果の平等という観点がある。
女権拡張運動は結果の平等を求めるため女性に下駄をはかせることがあり男性に不利が生じる場合がある。
他方で機会の平等を求めるとスポーツ大会などでは女性が勝てない以前に予選を突破できず出場機会がなくなる。
こういう問題を今も昔もいろいろな平等や差別の問題は抱える。
そもそも男女を分けること自体が差別ではないか。
差別ではなくて区別という人がいる。
この詭弁はよく使われる。
よい差別と悪い差別があるのかもしれない。
昔は差別はもうちょっと厳密につかわれた。
例えば「人種差別」というように人種に限定するようにした。
そうしないときりがなくなる。
実際20世紀末でもアパルトヘイトなどの国家ぐるみの差別制度が残っていたしそれ以外の体系的差別もそんなに昔のことではない。
こういったおおらかな時代には曖昧が許された。
またほかの問題も問題かされなかった。
問題は問題にならないと問題にならないし問題にするにはパワーがいる。
・LGBTQ+問題
男と女の差別や区別ではなしている間はそれなりにおさまりがついていたのではないか。
しかしLGBTQ+というより性別その他に対する本質的なことが問題化されると男女の差別や区別みたいな問題が使用抹消の些末な問題になるし、むしろ問題自体を解体、脱構築する方向に働く。
そもそも世の中にはいろいろなせいがある。
単に異性の格好をしたいというものもあれば、体と性と心の性が違う場合もあるし、人間の性行為は性的欲情の対象は異性とは限らず同性や両性の場合もある。
男女だけなら2つに分ければよかったがLGBQ+に目を向けるととんでもなく多様なせいがある。
それに合わせて制度や施設を作るというのが一つの解決方法である。
もう一つは制度、法律、施設、道徳的に性差をなくしてしまうというものだ。
これはフェミニズム、男女の2つの問題でしかなければ中途半端な議論で収まった。
妥協と折衷の果てに現代の制度はあったのだがLGBTQ+問題はより問題を一般化、普遍化、徹底したものだ。
この前にはフェミニズムもかすんでしまう。
むしろフェミニズムのような多数派にとってみれば既得権益が侵されることになる。
・現代的リベラルということ
自分は数学や哲学や精神医学が専門だったのであまり社会思想、言い換えれば集団主義の思想について考えたことがなかった。
現代哲学の自由はまずは個人の自由だ。
集団の自由というのも扱えるがまずは現代哲学の習得過程でも個人の自由を勉強することになる。
なので社会科学や政治方面で言われるリベラリズムや自由主義の定義をよく知らなかった。
私にはリベラルを名乗る思想グループがその力で制度を作ることにより個人の自由を制限しているように見えた。
それのどこがリベラルなのか分からなかった。
多分世の中のものはいろんな見方が出来る。
複数の見方を一つの対象に対して同時に出来るのが大人と言われる。
一つの見方に固定されて絶対化し他を否定するのは子供かイデオロギーで頭を凝り固まらせた人だ。
現代的なリベラルと呼ばれているものは一部の人の権利擁護や権利拡張運動を指す。
権利擁護と権利拡張と適当に書いてみた。
例えばそもそも女性がスポーツ大会に参加する資格自体が与えられていない場合に参加の資格をゲットするのは擁護みたいなイメージだ。
女性の権利拡張というのは参加資格があってもそろもそも男性選手には勝てないので男性が参加できない女性だけのスポーツ大会を設置するようなものだ。
ここら辺は言葉を適当に使っているので正確な定義があったらごめんなさい。
リベラルは一応多数決社会における弱者である少数者や別の理由で力が弱い集団、集団に対して抑圧されがちの個人の権利や平等を守ろうとする。
権利や平等や自由と別の概念ではあるが、実際にはいろんな意味で関係しているようだ。
人間は自分のしたいことを障害なくできる状態が自由で自由は幸せな状態と考えられる傾向があるようだ。
よってある特定集団のできることを増やす、出来ないことの原因である障害を減らすのは、権利の拡大、平等の拡大、自由の拡大と見做されるのだろう。
ただややこしいのはさっきも触れた機会の平等と結果の平等は真反対なこともあるし、区別と差別の区別も恣意的だし、男女のトイレを分けるようにいい差別と悪い差別がある、みたいな見方をされることだ。
ここら辺は厳密に体系化しようとするとそうとうややこしい。
恣意的になることが多い。
いろんな勢力の利害関係を調整しないといけないので政治的に玉虫色なシステムができがちでもある。
・嫌気がさした国々
ポリコレ、LGBTQ+、フェミニズム、SDGS、何でもいいが嫌気がさしている人がいる。
最近はアメリカのエンタメがポリコレ化してコンテンツとしての魅力がなくなりさnnン行として衰退しているようだ。
ポリコレから比較的自由の日本やアジアの漫画やアニメやドラマが人気だったりする。
美男美女を主人公にしてはいけないのだ。
となると積極的に反対の声を上げる人もいる一方でサイレントマジョリティはそもそもエンタメサービスを購買しなくなる。
そして静かに勢力が衰えていく。
先進国間でも普通の人々は嫌気がさすだろう。
これは保守とか右翼とか明確な政治的立場がなくてもそうなる。
今までになじんできた人がもっと面白いものが出てきたのならともかく、魅力が低下したものが出てきたら別のサービスに移行するのはおかしくない。
国レベルでアメリカやヨーロッパのポリコレに嫌気がさしてきた国が多い。
ここに新冷戦における欧米諸国と中露をはじめとするグローバルサウスの2極化がある。
まあ多くの国はどっちつかずで蝙蝠のように様子を伺い立ち回っているのではあるが。
そもそも欧米諸国が他の先進国ではない途上国に押し付ける価値観は途上国にはうっとおしいだろう。
男女のトイレを分けろと言ってもそのお金がない場合がある。
先進国だって発展する前は男女のトイレを分けるお金がなかったから日本のように男女共用にしていた時代があるのだ。
価値観などはともかく、男女共用にしろというならいう側がその費用を出すなら筋が通る。
でも口だけ出す。
これはうざい。
しかも自分が過去に同じことをしていたのを棚に置いてだ。
これでは嫌われない方がおかしい。
アメリカの国力も減退傾向だ。
特に民主党政権だ。
補助金ばらまいてインフレ起こしている。
自分が化石燃料浸かって発展したのに急に使うなと言いだしてそれを発展途上国に押し付ける。
ヨーロッパも同じだ。
大まかに言ってかなり前から長期的に落ち目傾向だ。
力もなく援助もないとなればいうこと聞くメリットもないし、逆らってもそんなにひどい目に遭わせられることもない。
中露や伝統的価値観を大切にし尊重する他の国とつるんだ方がいい。
というわけで新冷戦の2極化が生じているのは利害はあるがもう一つ思想、というより感情の問題もある。
ここで我が日本のLGBT法案に戻る。
これは分かり易く日本が欧米陣営であるということを示すためのアピールであると言ってもよい。
民主党政権に強要されたのであれば踏み絵と言ってもよい。
宏池会は清和会とならんで保守本流なので対米従属日本非独立派だ。
というめでみると総理大臣も自民党の上層部もLGBT自体には興味がなさそうな顔をしている。
自由、平等、差別、権利は直接は関係ない独立事象的なものではあるがそれは倫理学とかの抽象的なより領域であって、もっと現実的な政治や社会学などでは絡まりまくっている。
・自由とは
差別や区別がフェミニズムレベルでは中途半端で相対的であったのと同じように自由も実は適当に使われる概念だ。
いろいろな理屈をつけることはできる。
構造主義化することもできる。
ただ自由については気分で使うので十分だろう。
自由な感じがするのが自由だ。
誰かが厳密で重厚な定義をしているのかもしれないがそういうものがあって広いコンセンサスを得ているのならもっと使われている。
気分で使われているので自由とは何かを問うことも必要なく自明と見做される傾向だ。
まあそれでいい。
自由とは勝手気ままと同じとここではする。
実際には勝手気ままなどはないという考え方もあって、フロイトの無意識、潜在意識や構造主義がそういうのを指示する。
自分で自由と思っていても実際に何かに支配され動かされている、あるいは限定されているが気付いてないだけというものだ。
客観的にはどうであれ主観的に自由感があればそれが自由でいいだろう。
・哲学と自由
現代哲学の自由とはそのものずばりで勝手気ままで自由な気分と考えてよい。
現代哲学ではなく現代思想と言ってもいいかもしれない。
近代哲学では自由は哲学の重要な構成要素になっている場合がある。
ドイツ観念論だ。
カントの純粋理性批判の「物自体」を解決するためドイツ観念論が出た。
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルだ。
物自体という仮定を排し絵観念しかないと考える。
世界は観念の創造物に過ぎない。
そこで出てくるのが自由と障害だ。
自由を障害する発展形として世界をとらえる。
それを洗練させたのがシェリングやヘーゲルの哲学だ。
もっとさかのぼると暗黒の中世と言われるのは学問の自由がなかったから哲学が発展しなかった時代と言える。
古代ギリシアやルネサンスを経ての近代以降には自由な思考が許されたから哲学が発展したのかもしれない。
律法や聖書や教会や教皇や会議を前提にすればフィヒテの言う意味での障害だらけだ。
サルトルの実存哲学でも自由がキーワードだ。
現代哲学でも自由は重要な構成要素だがそれほど推しというわけではなく前提のようなものだ。
ポスト構造主義では何らかのイデオロギーを真理とか正義とか絶対とかとして押し付けるのは不可能という前提に立って作られた思想だ。
・個人の自由と集団の自由
現代哲学の自由は個人の自由だ。
個人、あるいは内面の自由だ。
近代の科学の厳密化の流れの中で哲学も対象の明確化が行われることになった。
現象学のフッサールは哲学の扱う範囲は精神の中の減少だけと考えた。
実存主義哲学は現に今ある状態における個人の在り方を考えた。
精神病理学や精神分析学もあくまで対象は個人の内面の範囲内だ。
テレパシーみたいなものは科学では扱わないので当然そうなる。
それは観念論ではないかと言われれば観念論と言ってもいいだろう。
観念論の定義による。
ドイツ観念論もカントやフィヒテは個人の内界だけが研究対象と言える。
ヘーゲルのようにそこから世界全体を説明するような理論を作ったがこれはやややりすぎだろう。
世界を説明する方法はいろいろある。
聖書でも神話でも神でもよい。
ただ実用性はない。
ヘーゲルも実用性はないのだが何故かマルクス主義に採用されて社会に実装されてしまった。
もともとバグが多い思想なので偉大と悲惨の20世紀の悲惨な部分はマルクス主義のバグに追う部分が多い。
・構造主義
構造主義は2通りに使える。
それ自体が経済学、社会学、文化人類学、言語学、文学論、歴史学、数学、なんでもいいが理論を作るのに使える。
もう一つは精神分析や哲学に使える。
後者から現代哲学が生まれている。
後者はそもそもの範囲が個人の内面だけだから哲学的自由というとまず個人の内的自由が上がる。
ただ必ずしもそうである必要はない。
前者に構造主義を使えば個人ではなく人間集団のイデオロギーを作るのに使える。
構造主義は個人思想と集団思想のどちらにも使える。
思想、理論、イデオロギーなどは全て構造主義化できる。
構造主義は学問の基礎である言語学と数学で生まれたが数学では構造主義と言わず形式主義や功利主義という。
小学生の国語の問題集に「彼の態度は心がこもっておらず形式的だ」みたいな文があった。
これは形式主義、ひいては構造主義の本質について非常にいい所をついた文だ。
この場合は心は実体や実在と言い換えられる。
「形式主義で実在や実体の概念を認めない」
これが構造主義を理解するのに一番分かり易い形だと思う。
形式主義と実在や実体の概念は実際には共存できる。
構造主義と実在論は両立してもよい。
ただ実在論を排して構造主義的にだけ見る訓練が構造主義の習得にはよい。
構造主義を徹底することで実体をつくる、実在が存在するように感じさせるのが構造主義のポイントだ。
これができれば実は構造があれば実在も実体もいらないといえることになる。
構造から実在感も実体も作れるからだ。
似た表現に表面主義があるかもしれない。
「表面だけ、見た目だけで内容がない」
これも形式主義と心の関係に似ているだろう。
表面だけあって内容がないのだ。
しかし表面をしっかり作りこめば内容が生まれる。
形式をしっかり作れば心が生まれるのは構造主義に限らず昔から芸術論で語られるところだ。
というか人間に作れるのは表面や形式だけだ。
実体や心や内容は作れない。
結果作っているように生じているように感じるだけだ。
職人だろうがアーティストだろうがプログラマーだろうが心や実体を作っているわけではない。
という見方を構造主義ではできるようにならないといけない。
映画でコンピュータやロボットに自我が宿るか、という話に似ている。
・現代哲学・現代思想の個人の自由
個人は勝手気ままに考えて行動する。
してよいし、しなくてもよいがそれも自分で勝手に決めればよい。
これが現代哲学の出発点だ。
自由と言ってもたかだか主観的な自由の感情程度のものだ。
人間は自由にやっているようでいて洗脳されているだけかもしれないし、潜在意識の奴隷になっているのかもしれないし、頭が悪すぎて本当にやりたいことを思いつかずもやもやしているだけかもしれない。
ただやりたいこと、考えたいことに障害や邪魔を感じず、自分の思ったとおりに行動できた、何かが実現したと感じれば自由と感じられるのかもしれない。
これがポスト構造主義の前提だ。
ポスト構造主義では自由に自分の思想、イデオロギー、理論を選択できる。
選択どころか自分で作ることが出来る。
構造主義を使えば作ることが出来る。
構造主義を使わなくても実在論でも作ることが出来るかもしれない。
その際選択も創造も自由というのがポスト構造主義の前提だ。
ただし作る、創造するについては能力その他によってできない場合もあるかもしれない。
ポスト構造主義的に自由を邪魔するのは多くの場合押し付けになる。
このイデオロギーを信じろとか、こっちが真理だから信じるべきとか、こっちが正義だからそれに従わなければいけないと言ってくる人がいるとしたらそれは自由の障害だ。
そもそもポスト構造主義的には何かを信じるとか従わなければいけない理由なるものはないのだ。
ポスト構造主義では真理や正義が存在する、という考え方を認めない。
存在するかもしれないが存在しないかもしれない。
いいとこ存在するとしても人間には分からないという前提だ。
よく分からない、分かりえないものを正しいと言って押し付けてくるのはよい人間とはいえないだろう。
現代哲学、というと本当は存在論と認識論しか取り扱わないから厳密にいうと20世紀後半に流行った現代思想は個人のレベルでは自由主義だ。
・集団の自由主義
現代哲学では理論はなんでも取り扱う。
理論を取り扱うための理論が現代哲学だ。
当然集団主義の思想も取り扱う。
ファシズム、共産主義、マルクス主義、社会主義、民主主義など個人主義ではない思想や理論も取り扱う。
個人主義で自由主義は分かり易い。
勝手気ままでよい。
それも主観的なものでよい。
集団主義の自由主義というのは分かりにくい。
分かり易い人もいるかもしれないが私のように分かりにくいと思っている人向けに書く。
古典的自由主義というものがある。
これは各人が好き勝手生きる状態だ。
行動が対立すれば戦ったり逃げたり屈服したりするだろう。
これはホッブズのリバイアサンの自由だ。
これはこれで一理ある。
また各人が自由にしても対立が生じないのではという考え方もある。
東洋思想の性善説みたいなものだ。
どっちもありうるだろう。
個人が自由感を味わえるのが大切なのは変わらない。
または集団を形成するメンバーの中の何人かが自由を感じ得られるのを目指すのが現在のリベラリズムだ。
・ポスト構造主義はメタ認知と自由
ポスト構造主義を一言で表すとメタ認知となる。
メタ認知を持てば通常の認知から自由になる。
何かの思想、理論、イデオロギー、宗教、そういったものが正しいとか正しくない、あるいは信じるべきか信じないべきかという単純な思考図式から離れるためには別の次元を導入したり次元を上げるのがいい。
そうすれば離れて見れるし俯瞰してみることが出来る。
突き放してみる、客観的に見る、第三者的な視点から見ると言い換えてもよい。
正と反から止揚して合で見るヘーゲル的な弁証法をイメージしてもよい。
正反、正否、正誤、理想化と引き下ろしなどの二元論的、排中律的、白黒思考的思考様式は発達心理学では早期に習得されやすいという考え方がある。
発達の早い段階で獲得されるものは人間には自明なもの、真理なもののように感じられる。
実在論的対象認識が発達心理学者のピアジェの心理発達早期の直感的思考段階に獲得されるため人間の思考に馴染みやすいの似ている。
精神分析学では防衛機制という考え方があり、防衛機制の中でも発達早期に獲得される原始的なものから高度な認知や感情的な発達に伴う高次の防衛機制があるという考え方は精神科医では境界性/情緒不安定性パーソナリティ障害を学ぶ際には精神病理学では必ず学ぶ。
精神病理学は人間の認知的病理を学ぶ学問で、精神障害の中でも認知障害や思考障害をきたす障害を重点的に研究する。
精神病圏とは構造的な認知や思考の障害がある状態で時に説明や了解が困難、神経症圏とは構造的な認知や思考の障害がない状態で説明や了解が容易な状態と見る。
精神病圏ではメタ認知障害が生じることがあり、自分がおかしな言動や行動がある可能性を思いめぐらせることが出来なくなる。
「自分がおかしいかもしれない、間違っているかもしれない」ということを想像できない状態を精神病理学では説明や了解不能な異常な状態と考えた。
これは現代的にいうとメタ認知の問題だ。
「自分の信じている思想、イデオロギー、理論、宗教が間違っているかもしれない」という見方が出来ないと異常ということになる。
この問題を発展させ整理したのがポスト構造主義だ。
「あらゆる思想、理論、イデオロギー、宗教は正しいかもしれないし、正しくないかもしれないし、そもそも正しい、正しくないかが本質的に分からないかもしれない」これがポスト構造主義だ。
我々が何かを思考したり行動する時には何かの、思想、理論、イデオロギー、宗教などに従って行う事がある。
なんの思想、理論、イデオロギー、宗教に従うかは主体の選択だ。
選択する理由は正しいからとか正しくないからではない、というのがポスト構造主義だ。
正しいかどうかは知りえないものだ、というのが現代哲学の前提だ。
そもそも正しいとか正しくないという定義自体がどうとでも理屈づけられる。
あらゆる物事はどうとでも理屈づけられる、というのか構造主義の考え方であり、理屈づけの方法として便利なのが構造主義だ。
主体が何を選択するか、なぜその選択をするかというのは自由だ。
また主体の問題だし、それが主体性という言葉の意味でもある。
何かの理由に従う場合もあるだろうし、別に理由などない、というのでもいいし、気まぐれでもいいし、何となくでもいいし、それが好きだから、想選択したかったから、という場合もあるだろう。
つまり個人の自由というのは何でもありだ。
・他者と外部と自由
個人の自由を妨げるものは障害として認識されるかもしれない。
これはフィヒテの哲学でもあって、障害があるからこそ世界が出現すると考える。
フッサール風に言うと現象が現前する、と言えるかもしれない。
自分が自由にできないのは他者や外部環境が邪魔するためかもしれない。
あるいは自分が自由にすることで他者の自由を邪魔するかもしれない。
社会科学や、たぶん人文科学もそうだと思われるが、人間集団を扱う分野ではここが問題となる。
個人の自由が自分以外の個人、あるいは人間集団とぶつかる場合を考える事にある。
あるいは集団の中の部分集合のような一部の人々からなる人間集団の自由がその他の集団の構成員の自由と対立する場合を考える場合が出てくる。
・自由、平等、権利、差別、多様性などの関係
自由と平等と権利と差別と多様性は全て独立事象と一回考えるのが理系の流儀だ。
どれかが関係があるとしてた関係性をくみ上げると構造主義になるし、関係をくみ上げるのではなくもとも関係はあることは自明だと主張すると実在論になる。
現代哲学は上記のように自由とは関係がある。
ただ社会科学のいう自由とは違う。
他人がいなくても外部環境がなくても成立するのが現代哲学の自由だ。
集団、他人、社会に忖度する必要はない。
ロビンソンクルーソーのように他人が全くいない状況での哲学というのもありうるし、自分以外の誰か、時に全員が自分の自由に反対や攻撃してくる場合でも自分を貫き通したり、社会生活での振る舞いや発言と腹の中が反対だったり乖離していても構わない。
多分社会科学などで言われる自由と意味の区別が必要になる。
現代哲学だけを考えると自由という言葉は学習上の便利を除いて使わなくてもいいかもしれない。
個人的な自由でもあるし内面的な自由でもある。
わざわざ強調する必要がないかもしれない。
個人的な自由で他人や集団を考える必要がない。
差異のある複数の人間からなる多様性のある社会の中では一部の人の自由がその他の人々の自由を侵害する場合がある。
この場合の自由も気分レベルのものでよい。
きちんと定義できないものは所詮気分レベルのものだ。
自然科学以外、理系以外、の諸分野の概念の使い方が往々にそうなる。
・男女の場合
男女を分ける場合だと、男女のトイレ、風呂、スポーツ大会を分けるのは差別で不平等という考え方がある。
これには差別がない。
昔は豊かではなかったので男女で便所、スポーツ大会、風呂を分ける余裕がなかった。
普通の家庭は男女別のトイレも風呂もないし、小さい店に行ってもそうだ。
男と女は分けるべきだという考え方があった。
これは保守側でもリベラルでも両面からある。
そもそも分けないのが平等で差別がないように見える。
しかし男と同じトイレに入りたくない人にとっては不自由だろう。
自由は選択肢が多ければいいから男便所、女便所、共用便所をつくれば好きな便所に入れる。
ただ金がかかる。
そのお金を誰かが負担しなければいけないので、負担する人に損害がかかる。
負担する人にとっては自由ではないし、平等でもないし、差別的だし、権利の侵害だし、自分の多様性を認めてもらってないと言えるかもしれない。
用途別のトイレをたくさん作れば多様性の尊重と言えるかもしれない。
・LGBTQ+
自由、平等、権利、差別、多様性は独立事象と考えるのが現代的な論理学や数学の考え方だ。
理系や自然科学専攻の人の考え方と言える.。
男女だと人間集団を2つに分けた。
LGBTQ+だと人間集団をもっとたくさんの数に分ける。
LGBTQ+は多様な性を指す。
ぱっとネットで検索するとLGBTQQIAAPPO2Sと出た。
もっと数が多いとするものもある。
精神医学では「性」に関する障害は数が多い。
日本語で「性」という言葉でまとめられてるだけであって外国ではそうまとめることはないかもしれないが。
性交の障害がある。
EVや性交時の痛みなどだ。
異性愛、同性愛、両性愛がある。
そもそも男女どちらともに性欲がないという状態もある。
これは昔はパラフィリアに分類されていたが今は障害とは認められていないようだ。
社会的な性自認がある。
性同一性障害や性別違和といういわゆるジェンダーの問題があるかもしれない。
異性の服を着たいという服装倒錯がある。
それぞれが、入りたいトイレ、風呂、スポーツ大会が異なっているかもしれない。
というと区別がとんでもない数に増えている。
どんな性でも分けるのを風呂、便所、スポーツ大会を分けるのをやめて同じしてしまおうとなればシンプルだ。
平等でむしろ差別がないと言えるのではないか。
しかし性の数に応じてトイレなどの設備やスポーツ大会などの制度を増やしていこうとなるととんでもない数が必要になる。
お金がかかる。
正義のためにはお金なんて、という幼稚な議論は現代ではとおらないだろう。
お金がないとやりたいことはできないことが多い。
多様な人たちの欲求に合わすという意味では多様性の尊重であり、社会の中での自由の増進かもしれない。
この多様性と自由は差別的と言える。
あの人と一緒に便所やトイレやスポーツ大会に出たくない、という欲求は不平等で差別と言える。
権利の観点で見ると別の面が見える。
権利は擁護や拡張と分けてみよう。
人種差別の制度や法案があるときにそういうのを撤廃するのを擁護としよう。
拡張はプロテスタントは教育熱心なカトリックやユダヤ人より学力が低いから下駄をはかせろというものだ。
これは20世紀前半のハーバード大学などの学校で行われてきたことだ。
前者ですら白人の既得権益を冒すので白人にとっては自由も権利も減る。
後者でもカトリックやユダヤ人は差別だと怒るかもしれない。
権利や自由の阻害でもある。
しかも理由が「ユダヤ人」であること「カトリック」で宗教差別ともいえる。
後者はアファーマティブアクションと呼ばれ現在絶賛進行中だ。
これは逆差別の問題になる。
この場合一緒にしてしまえば平等で差別のない世の中になる。
逆に分けないと差別で平等ではないという考え方がある。
この場合はトイレ、風呂、スポーツ大会を分けるのが差別解消で平等な世の中というものだ。
男女を分けるのがなぜ平等か差別でないかのロジックはよく分からない。
ウーマンリブやフェミニズム、女権拡張論で唱えられているらしい。
実際のところは本人も聞いている方も分からないのだろう。
分かるけども論理性、整合性、無矛盾性、不完全性、独立性がない。
論理破綻しているし、整合性がないし、矛盾したことを言っているし、関係ないことを言っているし、別の話を関係あるようにはなす。
議論がまとまらないし拡散していく。
「会議がおわらない」「無駄な会議」という日本症候群が生じてくる。
男女のトイレは同じなら平等で差別がないが、分ける場合には不平等で差別的だが、自由で権利拡張なのだろう。
権利拡張、これは下世話に言えば利益や権益の取り合いだ。
ゼロサムの場合も、ウィンウィンの場合もあるかもしれないが、それでも分配の不平や根亜美嫉みが残るかもしれない。
下世話な感情の問題になってしまうが下世話な感情やルサンチマンやエスの一形態として現代哲学の根源のようなところがある。
・リソースが無限ならあり場全てが許される
ドストエフスキーの有名なテーゼに「神がいなければ全てが許される」
というのがある。
ちょっと違うが「リソースが無限ならすべてが許される」
リソースは他人との対立、軋轢を避けるのに役立つ。
人と同じトイレが嫌なら一人一人が自分専用のトイレを持てばいい。
だがそれは無理だ。
逆に万人が教養のトイレを使う。
これは可能っぽい。
平等で差別はない。
自由は権利拡張の面から嫌がる人がいるかもしれない。
なんだかんだと男女別のトイレは社会に許容されえ来たが最近はLGBT+の主張が酸化してきて中途半端な女権拡張論を解体、脱構築してしまった。
・結局、感情、お金、イデオロギーの問題
私は京都の医大に通学していた。
当時大阪市浪速区恵美須町に住んでいた。
これは明治時代に博覧会を行ったところの跡地でルナパークというのが出来た後に新世界と言われる商工業都市大阪にあり戦前の日本で一番栄えた地域だ。
通天閣があるので有名だ。
そこから京都まで1時間40分かけてかよっていた。
同級生は京都をはじめ関西圏の有名神学校の学生ばかりだった。
小学校受験や中学受験組で、小中高から塾が一緒で知り合いのような内輪な世界だった。
当時は気付かなかったが私はそこで差別を受けていたようだ。
あいりん地区/釜ヶ崎という寄せ場に隣接していたし、西成のそばで、同和地区もある。
神戸女学院附属中高の学生はこの地区でボランティアをさせられるそうだ。
私はこの町が好きだったし、この町の住人は主体性や自主性があった。
喧嘩していても仲裁に入る。
金持っていてもボロボロの格好して見た目を気にしない。
人間力が人間の価値を決めると思っている。
お金や生まれや身分は関係ない。
その個人がどうあるかで自尊感情も他者のリスペクトも変わる世界だ。
しかも物質的なものではなく精神性や心意気が評価される。
現代哲学に傾倒していた私には理想的な社会だった。
そして私もその価値観を積極的に吸収した。
変な話皇帝でも富豪でも対等に接するのがこの街の人間の矜持だ。
自分がたとえひどい目にあっても他者のために行動できる人間の方が偉いのだ。
そのような価値観を持っていたので、生まれや育ちや住んでいる地域で人を差別する人間の中身に鈍感だった。
日本で一番有名な新学校の学生が厨二病か何かをこじらせたのかこちらに攻撃的な態度をとってくるので、「喧嘩売ってるなら表に出ろ」と耳元で呟いたらその後卑屈な態度をとるようになった。
これは大阪の下町的な価値観や心意気を持っている物からすれば逆にこちらの価値観からすれば差別するか関わらないようにする対象になる。
この差別する方が差別されている、あるいは差別されている側が差別している、というのは普通によく見られる。
ウクライナとロシア戦争ではお互いに差別しあっているかもしれない。
ユダヤ人は差別されたというがユダヤ人は選民意識を持っており非ユダヤ教徒を差別している。
大阪下町育ちは東京のアオビョウタンやもやしっ子を差別している。
遊牧民奴隷のマムルークは貴族のアラブ人や文官のイラン人を差別していたかもしれない。
差別とは感情的なもので、相対的なもので、主観的なものだ。
客観的には構造を変えてしまえば差別する側とされる側を逆転させることが出来る。
他方で主観的には差別感情を持つか、被差別感情を持つかが差別を規定する。
・金と政治とイデオロギー
差別とか管理を言っている人は純粋にイデオロギーを信じていて活動家である場合もあるだろう。
一方で人間は欲や生活があるので利権や権利拡張のためにやっている場合がある。
人権やらなんやらで行政とも手を組んでNGOやNPOを作って補助金を引き出し権益集団を作る方法だ。
SDGSなどもそれだ。
お金だけではなく政治の問題もある。
今は新冷戦中で中露やグローバルサウスは欧米先進国の力を弱めたいかもしれない。
はっきり言って欧米先進国はその他の国々知取ってうざいと思う。
自分たちが昔やっていたことをほかの国にはやってはだめという。
口を出すだけでなく金を出せばいいが当然金は出さない。
金は出さないのに口だけ出すのだ。
男女共同トイレを男女別々に2つ作るだけで金はかかる。
男女共用トイレ一戸でやっていた国民にトイレは分けろと言って自分の金で作れと言ったら嫌な顔もされる。
金を出すならいいが金は出さないのだ。
口だけ出す。
炭素排出権にせよ同性愛差別にせよその問題がある。
そもそも同性愛差別などしていない文化圏もある。
キリスト教文化圏のようにオスカーワイルド、アランチューリング、ジャンジュネなど法律でベルで宗教や刑罰を与えていた国と同じことを押し付けるのは違う。
リベラルは都合よく社会を分断してくれるので政治利用されている面もある。
他国を混乱しようと思ったら対立を煽り、分断させ、内部で争い合わせるのが良い。
日本にキリスト教宣教師が来てから常に試みられてきたやり方だ。
世界中でも同質の問題が帝国主義の時代、或いはそのはるか昔から行っている。
今は新冷戦時代だから中露が欧米日をかき回すのに都合のいいやり方ではある。
他方の中露ではそんなことは認めないのだ。
「イデオロギーを植え付けて洗脳する」これはいいやり方だ。
教育、メディア、アカデミズムなどを利用する。
これは冷戦前を知っていたり現代社会を知っているならよく分かると思う。
思想というのは権力装置だ。
みたいなことをマルクスが言ったり現代思想家が言ったりしている。
メタ認知があろうとなかろうと染みついた思想は強力だ。
無意識の構造に作用するからだ。
気分的に自由と自覚していても客観的にある種の先入観に支配されているのはよくあることだ。
・現代哲学と自由の関係の歴史
現代哲学の歴史と自由の関係についてみる。
現代哲学の元祖はお釈迦さまやナーガールジュナの大乗仏教系の思想だ。
お釈迦様は苦しみから逃れる事、輪廻転生で苦しみがない状態に永遠に行き着けないことから逃れるために仏教を作った。
これはある種の自由の追求と言える。
南伝仏教は知らないが本来の大乗仏教の流れはこの系譜にある。
個人的に時代の支配的な思想から逃れるために新しい思想を作ったと言える。
・現代思想
現代思想はモダニズムとマルクス主義から自由になることを目指して作られた思想という側面がある。
絶対的な個人的な自由だけならサルトルだけでよかっただろう。
そのサルトルも社会思想としてはマルクス主義に傾倒した。
どんな思想であれそれに支配されない、奴隷にならない自由を目指すのが現代思想の成立の歴史的経緯と言える。
・フーコーの場合
フーコーは精神病を作る構造や同性愛者を作る構造を研究した。
制度や権力装置、その時代時代の知的基盤でそういうものは作られる。
必要なのはその自覚と脱構築、それに代わるものを構築することになる。
個人の自由を邪魔する集団と個の関係が現代思想のテーマになる。
・ドゥルーズ=ガタリの場合
ドゥルーズとガタリは現代哲学に基づく自由な生き方の在り方をイメージして見せた。
現代哲学的生き方の提示だ。
現代思想と書いた方がいいかもしれない。
ただドゥルーズとガタリは現代哲学を理解していると思われる。
きちんと基本を踏まえている。
これは構造主義の使い方と言える。
・デリダの場合
デリダは正統的な哲学の文脈内で現代哲学を位置づけようとした。
そういう意味ではデリダは正当な哲学者で哲学の系譜を受け継いでいる。
倫理や思想ではないので自由とかが大きな問題ではなく、存在論や認識論の議論になる。
晩年には政治的な発言もしたようだ。
・自由と主体性
自由と主体性はセットだ。
現代哲学では何を選んでもいいのだからそれは主体の決定だ。
自覚やメタ認知があるのが推奨のような気がするがそうでなくても構わないだろう。
何かに従って決定しているのかもしれないがその何かの自覚がなければ選択したいから選択している意識しかないのでとても自由な状態だ。
自由も主体性の意識もなくてもいい。
子供のような状態だったり、記憶障害や認知障害がある場合だ。
こういう場合はあまり哲学の文脈で語られることはない。
一応現代社会の形を支えているのは健常者である大人とされているので、過去にやったことが記憶がない、何となくやった、後先考えずにやったみたいなスタンスだと集団の有力者の仲間に入れてもらえない。
まあ仲良くもできない。
そもそも哲学や学問としてこうした認知や存在について考えたり語ったり社会制度の一環として取り入れることがないだろう。
それはそれでいいのだがかなり秩序のない世の中になって秩序がないのはいいのかもしれないがあまり不安定なのは弊害が大きいだろう。
主体性がある同士が自由を行使して万人の万人による闘争状態になるのはそれはそれでありではある。
主体性はいつでもオンにはできないかもしれないので主体性オフの状態が望みもしない闘争状態に巻き込まれないようにしといた方が自分のためにも他人のためにもいいだろう。
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